長崎新キリシタン紀行-vol.6 宣教師が直面したカクレ、復活の物語
日本に残されたキリシタンの子孫たちにカトリックの正しい教義を教え直すために必要なものとは……。
教理本などの印刷事業、邦人司祭の養成、信仰を深め、共同体の心をひとつに結びつける日本語聖歌の製作。
「信徒発見」後、それまでの先祖代々の信仰が変化する瞬間、宣教師たちはどのように動いたのでしょうか。
再宣教はじまりの時、絶え間なく信者たちに働きかける宣教師たちの姿を追いました。
人間を愛する革命家ド・ロ神父の秘密出版
各地で地下組織である組を構成し、信仰を守り続けていたキリシタンたちは、大浦天主堂における「信徒発見」以降、自らのキリスト教信仰を発表。プティジャン司教をはじめ、再布教にあたり日本へ派遣された明治宣教師たちは、彼らを教会へ優しく迎え入れ、彼らにカトリックの正しい教義を教え直し、新たな信仰生活を送らせようと奔走します。そのために「教理本」の必要性を重視していたプティジャン司教は、ヨーロッパに出向いた明治元年(1868)、印刷技術を持つド・ロ神父を伴い帰国。まだ禁教中であった日本に降り立ったド・ロ神父最初の仕事は、大浦天主堂に設置された印刷所において秘密裏に行う「教理本」などの印刷事業でした。
このとき製版された印刷物には、再来日した宣教師たちの教えが禁教前に先祖が受けた教えと同一であることを示す工夫がふんだんになされていました。例えば、日本初の石版印刷物である教会暦(祝日表)『1868年歳次戌辰礼記』には、潜伏キリシタンが伝えていた教会暦〈バスチャンの日繰り〉と同じ、ポルトガル語のキリシタン用語を多用し信者たちが戸惑わないような配慮。続いて発行された『聖教日課』は、かつてイエズス会の神父が翻訳し、禁教下、長崎や外海の潜伏キリシタンたちが口伝えで伝承してきたものを平易な文章でまとめたものでした。
これがド・ロ神父の指導で石版印刷された〈プティジャン版〉です。この〈プティジャン版〉は、禁教下での潜伏時代に信仰を継承し、潜伏キリシタンたちが秘蔵していた〈キリシタン版〉や、口伝や写本で伝えられてきた〈オラショ〉に換えて信者たちに配られ、浸透していきました。外海に赴任する明治12年(1879)までの間にド・ロ神父が手がけた秘密の印刷物は、石版30種、活版6種にも及びます。
今回は、印刷事業から教会堂建築、福祉事業まで多方面で活躍したド・ロ神父同様、故国を離れ、遠い海の彼方の貧しい僻地で、その土地の信者のために全てを捧げ尽くした明治宣教師たちの再宣教の様子を紹介します。
COLUMN1 ド・ロ神父
◆長崎市ド・ロ神父記念館
北フランスヴォスロール村、ノルマンディー貴族の流れを汲む宣教師マルコ・マリー・ド・ロ神父。赴任後、外海の窮状を目の当たりにしたド・ロ神父は、魂を救うばかりではなく、まずはその身体を救うことから始めなければならないことを実感。父親から譲られた莫大な財産を惜しげもなく注ぎ、人々を貧困から救うために数多くの慈善事業を行い、生きる術を指導しました。明治18年(1885)、ド・ロ神父が設計、施工した旧鰯網工場を活用した記念館内には、宗教関連はもとより、手術用器材、大工・左官用具、ソーメン・マカロニ製造用具などが多数展示され、ド・ロ神父が行った偉業を体感することができます。
教理へと導く「ド・ロ版画」
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ド・ロ神父の大きな功績のひとつ、明治8年(1875)頃に製作された「ド・ロ版画」にも注目して見ましょう。
ド・ロ神父は、キリスト教の教義を日本人に分かりやすく説くために、宣教のための視覚的ツールとして、日本の風俗に即した木版手彩色、全10種を日本人絵師に作らせました。絵師、木版師ともに作者は不明。長崎県指定有形文化財、縦1メートル28センチ、横68センチという大判の木版画筆彩『煉極の霊魂の救い』ほか、聖人像や、善人の最期の様子などを絵で表現したものがあります。
現在、「ド・ロ版画」の版木10種は大浦天主堂にて保管されていますが、図柄が異なる類似の版画が五島市堂崎教会、天草市大江教会ほか、九州各地の教会や博物館などに計86点も存在しており、その所在地は、日本再布教の際にローマ教皇庁から派遣されたパリ外国宣教会の活動地域と重なっているのだといいます。これは、九州各地の再布教に「ド・ロ版画」が大いに活用されていたことを物語っています。
日本語聖歌の製作秘話
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キリスト教のミサにおいて、歌は大きな役割を担います。歌は信者にとって神への賛美・愛・信仰の表現であり、声を出して歌うことにより個々の気持ちを導き出し、信仰を深め、共同体の心をひとつに結びつけるものだといいます。再宣教に際し、派遣された初期の宣教師たちが製作したもののもうひとつが「日本語聖歌」でした。
「信徒発見」後、プティジャン司教の下で執り行われたミサにおいて、潜伏キリシタンが受け継いできた〈オラショ〉が正統的聖歌となることはありませんでした。しかし、馴染みのない西洋の音階による聖歌を歌うことも困難だと判断した宣教師たちは、正統的な聖歌を正しく伝えるために、歌を伴わない言葉による朗誦を唱えたのだといいます。明治時代に編纂された聖歌集は18種。明治12年(1879)、祈り文『オラショ並 ニヲシエ』の付録としてプティジャン司教が刊行した大浦天主堂版『きりしたんのうたひ』が、「信徒発見」後最初の聖歌集でした。グレゴリオ聖歌とフランスの聖歌集の日本語訳は潜伏キリシタンにより受け継がれてきた言葉を守るために長崎地方の訛りを加え伝えられた〈オラショ〉の伝統を引き継ぐ文体でした。
「信徒発見」後、再宣教に努めた神父たちと信者間には言葉の壁という大きな弊害があったにも関わらず、神父たちは信者に寄り添うことを徹底し、日本語の聖歌を生み出しました。その努力は並々ならぬものであったに違いありません。
本格的な神学校建設と始動した要理教育
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「ド・ロ版画」は大浦天主堂付設の神学校で刷られていたといい、この神学校建設もド・ロ神父の仕事でした。建築分野の知識も備えていたド・ロ神父は、外海赴任前の明治8年(1875)、大浦天主堂傍らに建設計画された長崎公教神学校(通称 羅典神学校)の設計、施工をプティジャン司教から任されました。明治10年(1877)、ド・ロ神父の日本における本格的な建築作品第1号において、本格的に日本人の司祭を養成する神学校が開設されました。
そして、明治13年(1880)12月、初代校長ルノー神父のもとで、深堀達右衛門、高木源太郎、有安秀之進という3人の日本人が司祭に叙階され、ついにプティジャン司教の念願が叶います。このとき大浦天主堂は祝福する3000人もの信者であふれ、プティジャン司教はその喜びのメッセージをパリの外国宣教会本部へ送ったといいます。
COLUMN2 旧羅典神学校
◆旧羅典神学校(旧長崎公教神学校)
地下1階、地上3階建ての木骨煉瓦造、全長20メートルにも及ぶ堅牢な大型西洋建築。骨組みは木造ながら壁に煉瓦を積む特殊なもので、資材には長崎で生産された薄いコンニャク煉瓦、目地には天川漆喰を使用。鎧戸付きの透明なガラス窓を用いるなど西欧建築技術をふんだんに導入しつつもド・ロ神父らしい実用的で素朴な造りとなっているのが特徴です。生徒数の増加により浦上校舎ができるまでは神学校の校舎兼宿舎として使用され、その後、司祭館や集会所などにも活用されました。外海の出津教会から、ド・ロ神父によって描かれたと見られる創建当初の図面が発見されています。国指定重要文化財。
「復活」と「カクレ」双方に向き合う神父たち
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潜伏期、キリシタンたちが水面下での信仰の支えとしていた先祖からのいい伝え「バスチャン伝説」。7代後に本当に現れた宣教師たちを前に、この伝説が残る地域と伝わらなかった地域でキリシタンたちは違う反応を示しました。
「バスチャン伝説」が伝わらなかった地域において、地下組織による信仰形態を7代にわたって守り続けていた彼らは、自らがキリスト教徒であるという認識がなく、だからこそ明治以降に宣教師たちが村社会に入り、村に教会堂が建設されるようになっても違和感を覚えました。そして改宗することなく、先祖伝来のキリシタン信仰を継続しようとしたのです。
彼らは、復活の道を拒み、自宅に神棚、仏壇を置きながら、人目につかない納戸にキリストやマリア像(納戸神)を祀り、先祖代々の信仰の形を守り抜きました。いわゆる「カクレキリシタン」と呼ばれる人たちです。
近年までその信仰形態を継承した主な集落は旧外海町の黒崎・出津地区、五島列島の福江島、奈留島、中通島、平戸島、生月島が挙げられます。
復活を阻んだ「差別問題」
また、外海地方で伝道したと伝わる日本人伝道士 バスチャンが殉教の際に言い遺した4つの予言〈バスチャンの予言〉のうち上記3つは、次々と現実のものへとなっていきました。
1、「今から7代後までわが子(キリスト教徒)と見なす」
2、「罪の告白を聴く神父が黒船に乗ってやって来る」
3、「どこでもキリシタンの歌を歌える時代が来る」
しかし、4つ目の予言に関してだけは、長い潜伏時代を通じて積み重なった根深い問題をはらんでいました。
4、「異教徒に出会うと先方が道を譲るようになる」
1878年のパリ外国宣教会年度報告書には、旧キリシタンたちが教会に復帰しない最大の原因を「迫害に対する恐れである」と記されていたといいます。「信徒発見」以降、さらにキリスト教禁教令が解けた明治以降もキリスト教に復帰しなかった人々がいたその背景には、信仰を表明することによる迫害への警戒に加え、小さな集落であるがために生じる「差別問題」がありました。特に外海などからの移住者が多かった五島列島では、隣町とさえ交流を持つことなく、言葉にも違いが見られました。また、困窮を極めた生活から身なりだけで分かる場合もあったといいます。
潜伏キリシタンのことは「黒」(非キリシタン=白)、「外道」などと呼ばれ、明治7年(1874)に平民も姓を名乗ることになった時、役人たちは侮蔑を込めて「下」の字が付く姓を強制したという話も残ります。
復活した信者たちの悲願「神の家」
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キリスト教(カトリック)信者へ復活を遂げた彼らは、それぞれの地域に自分たちの〈神の家〉を建てることを熱望し、プティジャン司教主導により、明治中期までに日本人信者のための教会堂が続々と建造されていきました。
長崎県内でいえば、伊王島の旧大明寺教会堂(1879〜1880年創建)五島列島久賀島の旧五輪教会堂(1881年創建)、同じく五島列島、現新魚目町の旧江袋教会堂(1882年創建)などがそれに当たるのですが、教会堂建物研究家 川上秀人氏の調査によれば建て替えなどによって消滅したものの、前述と同時期に県内で建設された教会堂は30棟に下らなかったといいます。
当時の教会堂建設には、長崎地方で活躍したブレル神父、マルマン神父などが尽力しました。
「愛の道」を切り開いた神父たち
ここで再宣教の初期に尽力した神父たちを紹介しましょう。慈悲深い神父たちと触れ合った人々によって各地に伝えられた逸話から当時の様子を垣間見ることができます。
まずは1870年に司祭に叙階され、翌年パリ外国宣教会に入会したペリュー神父です。
1872年、24歳のときに来日し新潟で日本語を学び、宣教活動を開始。1875年に長崎に移ると、プティジャン司教から外海・黒島・平戸島、馬渡島(佐賀県)の広大な教区の運営を任され、1878年には、平戸の田崎(紐差地区)に家御堂を設置しました。
佐世保沖に浮かぶ黒島は、禁教時代、外海や平戸からの移住者により構成された島。1872年のポワリエ神父の訪問、また禁教解除後、シャトロン神父の年2度の巡回により、島まるごとがカトリック信者に復活した珍しい島でした。
ペリュー神父は、この黒島にも初代教会を建設。また、海の巡回宣教を日本の歴史の中で初めて行い、漁師の信者が操るカコー船と呼ばれる手漕ぎ船で広大な区域を精力的に巡回しました。そして、禁教解除後も数多く存在した「カクレキリシタン」に対し、キリスト教への復活を熱心に呼びかけました。
「カクレキリシタン」へも熱心に伝道
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ペリュー神父の後を引き継いだのはラゲ神父でした。来崎後、長崎港外の神ノ島や伊王島を担当したラゲ神父は1881年に神ノ島教会を建設し、その経験を生かして1885年に紐差に教会を建設。ここを拠点に活動しました。この頃、黒島の信者が増加したことから、やがて農地不足になると予測し、田平地区(現平戸市)に土地を購入。3家族を移住させ、現在の田平教会堂の基礎を築きました。この成功をヒントにド・ロ神父も私財を投じ、田平、紐差地区に広大な敷地を購入し、外海 出津の信者を移住させる大事業を行なっています。
1881年に来崎したマトラ神父は、ラゲ神父の助任として平戸から黒島、馬渡島の広域を担当後、ラゲ神父の後任として平戸地区の主任司祭となりました。当時の平戸は、外海や五島から移住した東海岸の潜伏キリシタンはキリスト教に復活していましたが、西海岸や生月島に住むのは、旧来の信仰形態を守る「カクレキリシタン」の人々でした。マトラ神父は、「カクレキリシタン」への伝道も熱心に行い、さらに復活した信者たちのために上神崎教会、宝亀教会、大佐志教会と各地に教会を建築。さらに大正元年(1912)には生月島に山田カトリック教会を建立しました。
神父たちの教えに心動かされて
また、マトラ神父は、1878年にペリュー神父が設立した孤児などの教育団体「田崎愛苦会」(現在のお告げのマリア修道会の前身)の発展にも尽力。ここで農業や機織りをしつつ、孤児や老人の世話を行いました。
創建時の信者は16軒しかなく、「田崎愛苦会」の会員は、マトラ神父の指導の下、家にいる老人や病人の世話をすること、交流を持つことを目的に、日用雑貨や薬などを背負い行商の名目で各戸を訪ねました。最初は拒絶し罵声を浴びせられましたが、粘り強い努力によりキリスト教の正しい教えに耳を傾ける人、臨終を前に洗礼を乞うも出てきました。マトラ神父は「カクレキリシタン」を復活に導いただけではなく、紐差では仏教徒がキリスト教に改宗することも珍しくありませんでした。
40年の司祭生活を全て平戸島で送ったマトラ神父は、木靴を愛用し小学唱歌を口ずさむような無邪気さを持ち、司祭館には女性を雇わないなど、我が身を持するにも、信者を指導するにも厳しい人で、信者からとても慕われた神父でした。
天草の再宣教は長崎の一漁師から
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天草の潜伏キリシタンの存在を発見し、「信徒発見」後、プティジャン司教に伝えたのは、プティジャン司教の片腕となり活躍した長崎神ノ島のペトロ(西)政吉、ミケル忠吉の漁師兄弟でした。
明治7年(1874)頃、政吉は大江村の野中という字に入り込み、夜に人を集めキリシタンの話をして聞かせました。そのなかで政吉に付いて長崎に渡った夫婦がいました。夫の徳松は妻を追ってでありましたが、2人は大浦天主堂でローケーニュ神父と対面し、神父の誠意ある対応、語られるキリシタンの教えに感心し徳松の方が洗礼を願ったといいます。伝道士を伴い帰郷すると、これをきっかけに大江村にキリスト教復活の兆しが見えはじめました。
明治9年(1876)3月、徳松は「天草大江野中村、平民、永田徳松」と名乗り熊本県に「転宗願」を提出。同年6月には徳松を筆頭に合わせて8名が「改宗願書」を差し出しました。明治初頭の天草において、仏教、神道を離れ、キリスト教に改宗することは大変なことでした。そんななか、巡回宣教師が来島するようになります。大浦天主堂の献堂式から12年後のことでした。
仏教徒から信頼されるキリスト教徒
宣教師たちにとっては、かつて伝えられたキリスト教布教の痕跡がどこかに残っていないか、子孫がどうしているかが最大の関心事でした。
明治10年(1877)にマルマン神父が来島。続いて巡回するようになったコール神父は4度来往し潜伏キリシタンの子孫発見に尽力しました。2年後には熊本天主公教会(現在の熊本市カトリック手取教会)に着任。当時の布教日誌からは各地を訪問し多くの人々に面会したことが伺えます。コール神父は布教の傍ら、熊本にハンセン病患者の療養施設、育児院、女学校設立など多くの事業を発案し実現させています。
その後、定住の神父が来島し再宣教が本格化します。明治13年(1880)、後に長崎公教神学校第3代校長に就任するボンヌ神父が天草地方を担当することになりました。
各村にはキリシタンの子孫もいましたが、迫害への恐れからか調査をすると「知りません」との答えが返ってきます。しかし、死の間際になり洗礼を願う病人のもとに夜間、駆け付けることもあったといいます。
一方で、村ではキリスト教信者が迫害されることもなく、むしろ紛争が起こると仲裁人には信者が選ばれるほど信頼を受けていました。大江の村長は全村民が信者になることを願い、明治中期には、600戸中550戸が元潜伏キリシタンであった﨑津村の村長も異教徒ながら早く村に教会を建築してほしいと、土地を提供し資金も寄付しています。
神父たちが教える福祉の精神
定住2代目は在住7年間、各地のキリシタンの子孫たちと交流したフェリエ神父です。
赴任の2年後の信者数は大江142人、﨑津244人、今富67人、計453人にまで増えていました。フェリエ神父は明治16年(1883)に大江教会を、翌年に﨑津教会の建設に着手。また、貧しく食べ物に困った故に人の畑の作物を食べ荒らしていた子供たちに救いの手を差しのべ、﨑津教会から車で30分ほどの山深い場所に「根引きの子部屋」という孤児院をつくり、教会から食料を運び、子どもらと周囲を開墾して畑を広げ、自立して生きる術を学ばせました。
フェリエ神父に続くガルニエ神父もまた、「根引きの子部屋」に毎週通い、子どもたちが自活できるよう支援。成長すると養子や子守奉公に出して自立させました。
ド・ロ神父が外海の地に伝えた生きる力
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明治12年(1879)年の外海赴任後、ド・ロ神父が真っ先に手を付けたのは「女部屋」の創設でした。
大石シゲたち5人の女性が共同生活を行い、日々織物、染織などの技術習得を行いました。出津の女部屋はド・ロ神父によって「聖ヨゼフ修道院」と名付けられ、明治16年(1883)には、旧庄屋屋敷に「救助院」を設け、海難で夫を失った寡婦たちや貧しい農家の娘たちに機械織り、裁縫、製粉などの技術を身につけさせ、読み書き算術の手ほどきも行いました。後にパン、マカロニ、そうめんの製造、油しぼりなども指導。いずれもド・ロ神父が身につけていた技術で、彼は惜しみなくその技術を授けました。
救助院で学び働いた全ての女性が修道女として一生を捧げたわけではありません。退院後は自由となり、技術と教養を身につけた女性たちは家庭に入る人も多くいました。ド・ロ神父は〈よい母親を作ること〉を目的のひとつにしており、救助院は花嫁学校の役割も果たしていました。また、男性には故国より農機具や小麦などの優良品種を取り寄せ、原野の開墾、農耕の改良と、フランス式農園法を指導しました。
外海を訪れると、ド・ロ神父が140年余りの時を経た今でも「ド・ロ様」と呼び親しまれ、この地に存在感を示している理由がわかります。
COLUMN3 救助院
◆旧出津救助院
困窮した外海の人々を救うべく設立された授産活動の施設群。その中心となっていた授産場では、綿織物の製糸から製織、染色、そうめんやパンの製造、醤油等の醸造が行われていました。西洋から取り寄せた製造機を設置したマカロニ工場、ド・ロ神父考案で地元の自然石を不規則に積み重ねた丈夫な「ド・ロ塀」とともに国指定重要文化財となっています。漁網の製造は原料の麻の栽培から行い、そうめんやマカロニ製造に必要な油は栽培した落花生を潰し採油。原料の製造から仕上げまでを一貫して行うのがド・ロ神父様式でした。パンやマカロニはグラバーなど、在留外国人に販売。彼らは幾度も帆船にて出津を訪れています。
信徒発見の父、再宣教の道を拓き旅立つ
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大浦天主堂建設にはじまり、信徒発見、浦上四番崩れによる一村総流配、禁教令の高札撤去、再宣教、邦人司祭養成、教会堂建設への着手……。
来崎から21年。激動の年月を駆け抜けてきたプティジャン司教は、明治17年(1884)10月7日、肋膜炎と心臓病を併発し55歳で生涯を閉じました。
大浦天主堂、中央通路を主祭壇の前まで進んでいくと、右側壁面に蝋石版によるプティジャン司教の墓碑があります。そこはイザベリナ杉本ゆりが声をかけた際、跪き祈りを捧げていた場所だといいます。亡骸は生前の遺志により大浦天主堂内陣の床下に埋葬され、プティジャン司教は、今も大浦天主堂とともに存在しています。
COLUMN4 プティジャン司教の墓碑
◆プティジャン司教の墓碑
大浦天主堂、堂内中央の通路を主祭壇の前で進んで行くと、右側壁面にはめ込まれた蝋石版碑が目にとまります。これが、信徒発見の父であり、カトリックに復活した日本人信徒に向け教理教育の促進、再宣教活動に大きく貢献したプティジャン司教の墓碑。亡骸は祭壇下に安置されています。キリスト教の伝統に死者や聖遺物への祈りがあるため、かねてより祭壇側に墓所が設けられることが多く、蝋石版碑にはラテン語と漢文でプティジャン司教の略歴が刻まれています。令和6年(2024)は、逝去130周年の記念の年にあたり、偉大な宣教師であったプティジャン司教を讃え、記念ミサなどの記念行事が執り行われました。
登場した構成資産
関連地
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長崎市ド・ロ神父記念館
もっと見るド・ロ神父の遺徳をしのび、その偉業を今に伝えるために1968年に開館した記念館です。2003年に旧出津救助院の一部として、国の重要文化財に指定されました。内部には、神父がこの地で行った様々な事業に関する品物が展示されています。
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バスチャン屋敷跡
バスチャンは伝説の日本人伝道士で、外海や浦上や五島の人々が日繰りや予言などを残した人物として語り伝えてきた。もっと見る
ここは、バスチャンが役人に見つからないように隠れていたと言われる屋敷跡で、人影のない暗い山奥にあります。 -
田平天主堂
もっと見る田平天主堂は、1886年以降、ラゲ神父やド・ロ神父が買い取った土地に黒島、外海から移住した信徒によってはじまる。1918年、信徒たちは、中田藤吉神父の奔走による寄付に助けられ、鉄川与助が設計・施工した最後のレンガ造教会を建てた。
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上神崎教会
一帯は売却された旧松浦藩放牧地だったという。黒島や五島から移住して、次第に信者の大集落ができ、1891年、現在の田平や紐差の教会ができるまで北松浦地区随一の教会が建った。敷地内には、先祖の信仰が苦しみを経た後、この地で再び芽を出した喜びを象徴する碑が置かれている。もっと見る
2014年6月、3代目となる新聖堂に建替えられた。 -
宝亀教会
黒島で洗礼を受けた宇久島の宮大工が1898年に建てたレンガ造教会。正面は一時白かったが、今は印象的な赤い色。側面のベランダも特徴的。もっと見る -
大佐志教会
平戸島の南西の佐志岳の麓にある大佐志は、五島や黒島から移住してきた人々の子孫が住む集落。1886年頃からマトラ神父の指導を受け、1911年、最初の教会が建てられた。信徒の増加により、増改築がおこなわれ、1944年、1kmほど移動して国道に近い現在地に新教会が建てられた。もっと見る -
旧出津救助院
もっと見る1879年外海地方に赴任したフランス人宣教師、ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として1883年に設立した施設です。ここでは織物や縫物、食品加工などの技術を教え、人々の生活向上や拠点としてさまざまな活動が行われました。施設の一部は、貴重な明治初期の授産・福祉施設の遺構として国の重要文化財に指定されました。
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