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長崎新キリシタン紀行-vol.5 日本二十六聖人に捧げられた大浦天主堂と信徒発見-1

長崎新キリシタン紀行-vol.5 日本二十六聖人に捧げられた大浦天主堂と信徒発見

幕末・明治に来日した宣教師たちは、まるで命を燃やすように精力的に活動し、バトンを渡すかのように華麗な引き継ぎを果たしました。

長く苦しい受難の日々を乗り越えた潜伏キリシタンの歴史ある町に、子孫に、降り注いだ希望の光。
明治宣教師たちがもたらしたものとは──。

そのすべては、最初の殉教者、日本二十六聖人に捧げられた大浦天主堂の誕生からはじまりました。
 

潜伏キリシタン関連遺産
     
 

開国後の長崎に下り立った2人の神父

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    徳川幕府の禁教政策によって国内から神父が不在となったのは、正保元(1644)年。ヨーロッパでは、すでにその10年後に極東地方(東南アジア)の布教を目的とした修道院外で生活する司祭によるパリ外国宣教会が結成されました。幕末、ローマ教皇庁は、日本再宣教を開始する使命をパリ外国宣教会に託し、ジラール、フューレ、メルメ=カションの3人の神父を琉球王国へと渡来させ日本語を習得させていました。そんななか、安政5年(1858)、いわゆる安政の開国により長崎港が開港すると、貿易の販路を日本に向け長崎の地に移住してきた外国人たちが日曜ごとに礼拝する教会を建設することが認められました。

    文久2年(1862)6月8日、ローマ教皇ビオ9世は長崎で殉教した二十六殉教者を聖人に加列。これは、カトリック教会において殉教者、あるいは信仰と徳に秀でた信者だと公式に認可され、聖人の列に加えられたということです。

    開国間近とみたローマ教皇庁は、いち早くパリ外国宣教会に日本再宣教を託し、早速ジラール教区長は、琉球で待機するフューレ、プティジャン両神父に長崎への入国を指令。そして文久3年(1863)、長崎に2人の宣教師が派遣されました。パリ外国宣教会が彼らに命じた使命は、西坂の丘で殉教した二十六殉教者へ捧げる教会堂を建立すること。そして……必ずや実在すると信じられる、今も水面下で信仰を継承するキリシタンの子孫たちを見つけ出すというものでした。

    今回は、国宝 大浦天主堂の建立秘話と「信徒発見」の奇跡、そして、「信徒発見」後のキリシタンの行動、悲話に迫ります。

コラム

COLUMN1 国宝 大浦天主堂-1

COLUMN1 国宝 大浦天主堂

◆大浦天主堂 正式名(日本二十六聖殉教者聖堂)
海に山に、大自然に溶け込むように建てられた長崎県域の多くの教会群は、この大浦天主堂で起きた「信徒発見」の出来事をきっかけに建てられていったものです。大浦天主堂、創建時の建築様式は3本の塔を持つゴシック構造ながら、正面中央の壁面はバロック風、外壁は日本伝統のなまこ壁という特殊な意匠でした。明治8年(1875)、明治12年(1879)に増改築され平面形式と外観デザイン、外壁も木造から煉瓦造に変更され現在の姿になりましたが内部には創建当初の姿が残っています。文久元年(1862)、横浜外国人居留地に開国後最初の教会堂・横浜天主堂(聖心聖堂)が建立されましたが、関東大震災で大破したため国内に現存する最古の教会として国宝に指定されています。

大浦天主堂公式サイト

列聖への道を開く「報告書」

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    先に長崎入りしたフューレ神父は、フランス領事の仲介で南山手乙1番の敷地を入手し、まずは住居となる司祭館の建設に入りました。文久3年(1863)8月初旬にプティジャン神父が長崎入りすると、新しい教会堂の建設地を選ぶために当時はまだ不明であった二十六殉教者の殉教の地(日本二十六聖人殉教地)を熱心に探しました。それは、その後に続いた多くの殉教者、迫害者の心の支柱が二十六殉教者にあり、その殉教地が長崎のキリシタンにとって特別な場所であることを深く理解していたからにほかなりません。

    フランシスコ会ペトロ・バプチスタ神父をはじめとした6名の外国人宣教師と、日本人信者20名が聖人に列せられたのは、殉教から実に265年の月日が経ってからのこと。驚くべき事実は、当時二十六殉教者については、殉教からわずか7年後の慶長9年(1604)、日本人信者の間から列聖運動が起こったことでした。スペイン・パストラナの文書館に今も現存するローマ教皇に列聖を請願した文書。これを受けヨーロッパでも直ちに列聖運動がはじまりましたが、宣教師追放などの禁教政策により日本からの情報は途絶え、一時中断。その後、長崎二十六殉教者は2度にわたりローマにおいて列福(福者への加列)され、それから更に230余年の時を経た後、列聖されたのです。

    長い禁教時代の扉を開き、新しい布教の時代を迎えるきっかけとなった大浦天主堂がこの町に創建されたのは、それから2年後の元治元年(1864)11月のことでした。しかし、完成目前の10月、フューレ神父が突如一年の休暇を取って帰国。後任に24歳の若きローケーニュ神父が着任しました。

    大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者聖堂」です。日本二十六聖人に捧げられたこの教会堂は殉教の地である西坂の丘に向けて建ち、祈りを捧げるかのように今も佇みます。

コラム

COLUMN2 日本二十六聖人殉教地(西坂公園)-1

COLUMN2 日本二十六聖人殉教地(西坂公園)

◆日本二十六聖人殉教地(西坂公園)
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日、京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘。キリストが十字架に架けられたエルサレムの「ゴルゴタの丘」に似ていることから信者たちが処刑の場に願い出たといわれ、以降も多くのキリシタンがこの地で処刑されました。昭和25年(1950)、ローマ教皇ピオ12世はこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と制定。26人の殉教者の列聖100年目の昭和37年(1962)には二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込記念碑とともに記念館、記念聖堂が隣接され、一帯で信仰の自由が奪われた歴史を発信し続けています。

コラム

COLUMN3 日本二十六聖人記念館-1

COLUMN3 日本二十六聖人記念館

◆日本二十六聖人記念館
日本二十六聖人列聖100年を記念して昭和37年(1962)に開館した資料館。「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」や、天正遣欧少年使節のひとりで、同地で殉教した中浦ジュリアンの書簡、踏み絵と同型のもので信者が守り抜いた16世紀の「ピエタ」、潜伏キリシタンの祈りの対象であった「雪のサンタ・マリア」などの貴重な資料を多数展示。聖フランシスコ・ザビエルの渡来から日本でのキリスト教布教から弾圧の時代、二十六聖人の殉教、潜伏キリシタンの祈りから明治時代の信仰の復活までの歴史がわかりやすく解説され、長崎のキリシタン史を理解するにふさわしい場所です。

日本二十六聖人記念館公式サイト

「フランス寺」

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    南山手の丘に誕生した大浦天主堂のことを、当時長崎の人々は「フランス寺」と呼びました。
    プティジャン神父はその喜びをパリの神学校長に次のように報告しています。「教会はできあがりました。皆がこれをほめています。3つの鐘楼の金色の十字架が輝いているのが、長崎でどこからも、また*聖山の正面に見えます」。

    慶応元年(1865)2月19日、遂に盛大な献堂式が行われ、長崎港でロシア、イギリス、オランダ、フランスの軍艦が祝砲を轟かせ、各艦長も列席。教会正面には8カ国の国旗が翻りました。しかし日本側の高官は欠席し、代理の役人を数名遣わせただけでした。そこに長崎奉行の意図が見え隠れします。建設中は大勢が押し寄せた「フランス寺」には、献堂式以降、人が寄り付かなくなっていったといいます。

    しかし、それから約ひと月後の3月17日、外国人居留地に誕生したこの教会堂のなかで、全世界を驚嘆させた「信徒発見」が起きます。それは、潜伏していたキリシタンの子孫たちにとっては「宣教師発見」の一大事でした。


    *聖山/確定前の日本二十六聖人殉教地)

キリシタンと神父双方の心を揺さぶった「信徒発見」

長い潜伏時代、教会に訪れることはおろか、目にしたこともなく、声を揃え、祈りを捧げることすらできなかった信者たち。ずっと受け継がれてきたのは、目に見えない信仰。そして、その信仰を支えたのは、祈りを教わった先祖への想いだったのだと想像できます。目に浮かぶのは母のように優しい面持ちの聖母マリア様。

「サンタマリアの御像はどこ?」
数名の浦上信者が大浦天主堂を訪れたことから、信仰の道を選び潜伏し続けた人々の新しい時代がはじまりました。

居留地に住む外国人のために建立された大浦天主堂の正面には、日本語で書かれた『天主堂』の文字。堰を切ったように高まる想い。神父も、そして浦上信者も、全身に電流が走るほどの衝撃を受け、心が震えたに違いありません。……神父様の訪れを信じながらも、この日が訪れることなど考えることなどできなかったこれまでの人生……。それはまさに奇跡の瞬間でした。そして、各地に散らばった信者たちも次々に大浦天主堂へ向かいました。

「私たちの胸、あなたと同じ」。
危険をおかしてまでも、彼らもそう伝えたかったに違いありません。

変化する神父とキリシタンとの距離

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    フィーレ、プティジャン両神父は、来日した当初、浦上などに出向き、子どもたちにお菓子を与え、食べる際に十字の印を切らないかを観察。フューレ神父は乗っていた馬からわざと落ち、宣教師の自分を助けてはくれないかなど、キリシタンの子孫発見に務めたといいます。しかしながら一度も宣教師と触れ合うことなく、何世代もの間、潜伏生活を続けてきたキリシタンたちは、彼らが身につけるスータンと呼ばれる黒の法衣が、宣教師の姿であることに気付くはずもありません。単に“オランダさん(西洋人)”としか思わず通り過ぎるのでした。

    昭和8年(1933)、教会堂として唯一の国宝に指定された大浦天主堂。正面に立ち見上げると、今も中央に掲げられた『天主堂』の文字が目に飛び込んできます。

    信徒発見以後、プティジャン神父が浦上の信者を訪問すると、「私たちもあなた方を見かけてはいましたが、パーテル様だとわかったのは天主堂が建ってからです」と告げられたといいます。

    形ある信仰の対象――大浦天主堂の誕生が、これまであまりに長い期間、離れていた2つのものを大きく、大きく引き寄せていったのです。

キリシタンと神父双方の心を揺さぶった「信徒発見」

「信徒発見」が、各地で密かに信仰を引き継いでいた潜伏キリシタンたちを目覚めさせ、彼らの運命を変えていきます。

実のところ、フューレ神父がいわば志半ばで長崎を去ったのは禁教下にあっては日本人に宣教できないことを悲観してのことでした。しかし「信徒発見」の出来事を知ったフューレ神父は、慶応2年(1866)5月、クザン神父を伴い再び長崎入りし、各地から天主堂に駆けつける信徒の対応に当たりました。

同月、プティジャン神父はローマ教皇ピオ9世より日本の司教に任命されます。10月に香港で叙階式が行われプティジャン司教となり、年末にはフューレ、ローケーニュ、クザン、ポワリエ、アルンブリュステーの五神父が揃い体制が整いました。

信徒発見以降、長崎港外の神之島、高島、伊王島、さらには五島、外海地方のキリシタンが信仰を公表。長崎県下だけで数万人規模のキリシタンが潜伏していたことが明らかとなると、大浦天主堂には連日各地のキリシタンの代表者たちが押し寄せ、神父たちは、キリシタンの告解を聴き、情報を整理するなど対応に追われる日々が続きました。

各地の潜伏キリシタンの動き

上五島、若松島桐地区(現新上五島町)出身、当時17歳であったガスパル与作は傷養生中で長崎にいました。
大浦天主堂を見物した彼は、自分たちが先祖に倣い、極秘裏に守り伝えてきたものと同じ「十字架」や「聖母像」を目の当たりにし衝撃を受けます。与作はすぐにプティジャン司教に面談し、彼らこそが待ちに待っていた「真のパーデレ」であるということを理解しました。

また、伊王島の潜伏キリシタン、水方ミカエル仙蔵の長男ドミンゴ川原、大村藩の強制間引きと弾圧を逃れるため一家で外海 黒崎から五島・鯛ノ浦へと移り住んだドミンゴ森松次郎も大浦天主堂を度々訪れプティジャン司教から直接教えを受けています。黒崎で水方を務めていた出口吉太夫・大吉親子たち20名も信徒代表として大浦天主堂を密かに訪れ、神父たちに直接「黒崎には600人の信徒がいます」と伝えました。

18世紀に島外から入植が行われた黒島。入植者には外海地方の潜伏キリシタンも含まれていました。これら各地の代表者は、度々大浦天主堂を訪れ、神父たちから直接カトリックの教えを受けるようになっていきます。

神父たちから信者の方へ

慶応3年(1867)の初め、プティジャン司教は、クザン神父を密かに五島列島に派遣しています。これは、前述した「信徒発見」後に大浦天主堂を訪れ、その後、五島でキリシタンの指導者となったドミンゴ森松次郎の要請でした。

2月5日の早朝に長崎を出たクザン神父は、信者の漕ぐ船で80キロの東シナ海を渡り、夜に上五島、鯛ノ浦に着きました。翌日に松次郎宅の押し入れを祭壇にミサを行うと、多くの信者が詰めかけたといいます。その後、中通島の北東部に位置する周囲わずか4キロの無人島 頭ヶ島にも立ち寄り、18日に帰途に着きます。その後、松次郎は頭ヶ島に移り住み、自宅に仮聖堂を置き伝道士養成所を開くと、同年4月、クザン神父は再び五島を訪れました。

開国後も、幕府は日米修好通商条約において、外国人に対してかなり厳しい遊歩規定を設けました。天領長崎においては幕府の公領地、つまり市街地とその周囲の浦上周辺までが遊歩規定区域であり、クザン神父の五島巡回は、即違反です。秘密裏に行われる神父たちの巡回は、長崎港内外を小舟で行き交う極めて危険なものでもありました。

神学校建設への第一歩

驚くのは「信徒発見」が起こった年の年末に、プティジャン神父が邦人司祭の育成に乗り出していることです。

浦上キリシタンの中心人物であったドミンゴ高木仙右衛門の子ども敬三郎と源太郎、そして前述のガスパル与作の3人を司祭館に住まわせ、改装した屋根裏でローケーニュ神父らを中心にラテン語や公教要理を教えていたのです。来日したばかりのクザン神父も、昼間は日本語を学びつつ、夜は教理(典礼)を教えました。事実上、この屋根裏が長崎公教神学校の創設であり、ラテン語による授業であったため「羅典神学校」と呼ばれています。

後に開設される本格的に日本人の司祭を養成する神学校初代校長に就任したのは、弱冠24歳のルノー神父でした。彼には、大きな功績がもうひとつありました。

それは、「信徒発見」の折、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」と、信仰を告白した最初の発信者を特定する記録を残していたことです。

当時、立ち会ったプティジャン神父本人は耳元で囁いた女性の名前を書きとめていませんでした。しかし、来日直後のルノー神父が情報を記録しており、その女性が浜口町に住む助産師 イザベリナ杉本ゆりであったことが判明しました。その詳細は、福岡のサン・スルピス大進学院に保存されていた『ルノー日記』に記されています。

プティジャンの片腕、兄弟漁師

イザベリナ杉本ゆりがプティジャン神父に囁いた言葉が〈キリシタン復活〉の歴史をつくった――「信徒発見」の出来事は、その日のうちに家から家へと伝わり、翌日から浦上はもちろん、長崎港外の島々、外海、五島、天草などの潜伏キリシタンたちが大浦天主堂に続々つめかけることになったわけですが、そのなかにペトロ政吉という人物がいました。

兄は帳方ミケル(西 忠吉)といい、政吉は水方を務める兄弟漁師で、神の島の潜伏キリシタンでした。やがて2人は常に情報を提供するプティジャン司教の片腕として活躍します。2人は、島や村の名前、キリシタンの数などの貴重な情報をプティジャン司教に提供しました。彼らの手助けもあり、「信徒発見」以降、プティジャン司教たちは潜伏時代の組織や郷里や祈りの伝承、特に洗礼の有効性など、潜伏キリシタンたちの信仰生活についての調査を行っていましたが、「浦上四番崩れ」により調査は中断されます。

「浦上崩れ」――浦上の潜伏キリシタンを苦しめたこの検挙事件は、1番から3番までは、噂や密告が主流で、1回に月十数名が奉行所に検挙されるというものでしたが、四番崩れはこれらとは性質が違うものでした。

秘密教会を襲った一斉検挙

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    「信徒発見」以降、禁教時代、銭座町 聖徳寺の檀家として仏教徒を装っていた浦上信者は、死者が出ても寺で葬儀をあげたくないと絶縁状を叩きつけ、この勢いに長崎奉行はその場逃れ策として「仏僧の司式を要しない葬式」を許可しました。これに喜んだキリシタンは、浦上に4つの秘密教会を設け、招き入れた神父らは集まった人々にミサや洗礼を授けるようになります。神父は皆が寝静まった頃、スータンを脱ぎ捨て、ちょんまげのカツラを被り、和服姿の日本人になりすまして各地を巡回。後にローケーニュ神父は、この伝道の日々を「私の一生のなかで一番幸福なのはその当時であった」と回顧しています。

    慶応3年(1867)7月13日、この日ローケーニュ神父は、2週間ほど浦上に滞在するつもりで出掛けていました。「サンタ・マリア堂」で、大勢のキリシタンが熟睡していた日曜の夜、神父も小部屋で疲れた体を休めていた、その時、事件が起きます。

    捕方や役人により4つの秘密教会が同時に襲われ、67名の浦上キリシタンが連行され、奉行所近くの桜町牢に入れられました。

    寛政2年(1790)、天保13年(1842)、安政3年(1856)に続く、4度目の信者検挙、これが〈浦上四番崩れ〉です。

コラム

COLUMN4 秘密教会

◆秘密教会
「信徒発見」以降、浦上信者たちはすぐに密かに神父を迎え、洗礼を受け、要理の勉強をするための4つの教会を設けましたサンタ・クララ堂跡(現大橋町)、サン・フランシスコ・ザベリオ堂跡(現橋口町)、サンタ・マリア堂跡(現辻町)、サン・ヨゼフ堂跡(現辻町)。教会とはそもそも同一とした宗教の教義を説き広める「組織」のことで、その建物を教会堂と呼びます。秘密教会の外観は藁葺き屋根の人家同様のものだったといいます。そこへ一斉に役人が襲来し「浦上四番崩れ」が起こりました。秘密教会跡には、「信徒発見」から100周年を迎えた記念に記念碑が、125周年に説明版が設けられています。

浦上一村総流配の悲劇

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    「浦上四番崩れ」の発生後、プティジャン司教はこの問題の外交的解決をフランス国政府に図り、また、ローマ教皇に謁見するためにヨーロッパ人へ渡り、新宣教師ド・ロ神父を伴い帰国します。

    その翌日、浦上キリシタンの根絶に至らなかったとして、中心人物であった高木仙右衛門以下114人が長崎港から津和野、福山、萩へと送られて行きました。そして、明治2年(1869)2月4日、残った浦上キリシタンが全員流配される浦上一村総流配がはじまりました。過去最大の流罪「浦上四番崩れ」で、浦上一村3,589名は名古屋以西10万石以上の20藩21箇所預けとなり、流配先の藩主により生殺与奪の権が与えられた苛酷な拷問を受け、信仰を捨てるよう責め苦しめられました。

    浦上一村総流配、その日の朝、長崎には珍しい大雪が降り、町を白一色に覆っていました。雪が降りしきるなか、長崎港に用意された囚人を運ぶ諸藩の汽船12隻に次々に乗せられていきます。なかには、前途に待ち受けている死、あるいは死よりも苦しい拷問を恐れ、信仰を捨てる者もいました。

    彼らの頭上で役人の声が飛び交います。
    「114匹、備前岡山預け。179匹、安芸の広島預け……」
    このとき、キリシタンたちは、人間として扱われていませんでした。

    この日、プティジャン司教はローマ全カトリック教会の公会議出席のため不在でした。残る神父たちは、もはやなす術もなく、大浦天主堂から団平船に乗せられ、ゆっくりと港内を進んで行く大勢の信者たちを見守ることしかできませんでした。前年10月から長崎に滞在していたヴィリオン神父は、そのときの様子を次のように伝えています。

    「キリシタンたちは皆、天主堂の方を見ている。十字架のしるしをする者もある。婦人たちは洗礼のときに被った白いヴェールを頭にいただき、自分の信仰を公表している。(中略)私たちは茫然自失しながら、縁側からこの光景をずっとうち眺めた」

    神父たちの目の前で、再び悲劇がはじまったのでした。

苦難の日々「旅」からの帰還

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    浦上信者たちは流配のことを「旅」と呼びました。彼らは流配先での出来事を、天国という故郷へ至るために必要な真の信仰を獲得する「旅先」と捉えていたのです。飢えと重労働に明け暮れた「旅」は極めて苦しいものでしたが、「踏絵」などで背いた癒されない傷を抱えた浦上信者たちの罪の意識を解放してくれるものであったといいます。

    16〜18世紀、キリシタン用語では「愛」を「大切」と訳しました。人間は霊魂と肉体から成り、肉体は死んでも霊魂は永遠に生きると考えていた殉教者たちは、高度の真・善・美そのものである神の存在を「大切」に思い命を捨てることもいといませんでした。そこには肉体を殺した権力者の及ばない“神のもとで永遠に生きる”という希望があったからです。

    長崎の各地に潜んでいたキリシタンたちは、「信徒発見」後、一斉に動き出しました。信仰を公表できるという喜びと同時に訪れた検挙事件は、浦上地区に留まらず、五島列島など、それまでほとんど迫害がなかった地域でも渦巻くように発生し、信者たちを苦しめました。

    明治6年(1873)、諸外国の反発、批判に追い詰められた形で、ついに明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去。同年2月、ついに浦上の信者たちが「旅」から帰ってきました。流配者3394名のうち、不改心帰還者1,930名、改心者帰還者1,022名、死亡者56名、新たに生まれた命もありました。

    先祖同様に信仰を理由に迫害された彼らを、ローケーニュ神父、ポワリエ神父、ド・ロ神父たちが出迎えました。

もうひとつのマリア像「日本之聖母像」

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    国宝 大浦天主堂入り口で出迎えてくれる白亜のマリア像は、「信徒発見」の翌年、浦上の信者が持ち寄った寄附でフランスから取り寄せられ、「日本之聖母像」と名付けられました。観る者を包み込むような慈愛に満ちた優しい表情が印象的です。

    雪降りしきる冷たい冬の長崎港から流配されていった浦上の信者たち。
    流配の様子を大浦天主堂から目撃していた神父たちと同様に、このマリア像も彼らの姿を見守っていたことでしょう。
    ――どうか、無事な帰還を、と――。

    日本二十六聖人に捧げられた大浦天主堂、大いなる価値のひとつは、潜伏キリシタンの喜びと哀しみの場所であるということもあるでしょう。

※この特集は、季刊誌 樂(らく)に掲載された「新キリシタン紀行〜伝承者たちの道行き〜」「続新キリシタン紀行〜明治宣教師がつないだ精神(こころ)」を、新たな読み物に再構築したものです。

登場した構成資産

関連地

  • 日本二十六聖人殉教地-1

    日本二十六聖人殉教地

    豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから信者達がこの地を処刑の場に願い出たと言われており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々がこの地で処刑されました。

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  • 日本二十六聖人記念館-1

    日本二十六聖人記念館

    1597年2月5日、豊臣秀吉のキリシタン禁教令により日本で初めてキリシタン26人が処刑されました。殉教の地である「西坂の丘」に1962年、日本二十六聖人列聖100年を記念して建立された資料館で、世界的に知られるカトリック教徒の公式巡礼地です。

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  • 十字架山-1

    十字架山

    浦上四番崩れの流配から戻った浦上の信徒は、絵踏みをしたことを罪として償い、そして信仰を表明できることに感謝して、1881(明治14)年、当地の丘を購入して十字架を建てた。
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潜伏キリシタン関連遺産

 

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