長崎新キリシタン紀行-vol.4 潜伏キリシタンの集落と信仰構造の実態
宣教と繁栄、殉教、そして潜伏。
日本における初期のキリシタン時代は大きく3つに分けられます。
天文学を心得、病気やケガを適切に処置する宣教師は、寄付を強要することなく、隣人と助け合う精神と生活を教える。
宣教師たちの教えはカタコトながらもわかりやすく、人々の心に深く染み入り、キリスト教はやがて県内全域に広がりました。
しかし、宣教師は追放され不在に。正保元年(1644)以降、残されたキリシタンはその篤き信仰心を抱え、どのように暮らしたのでしょうか?
伝承、聖地、信仰の対象物……250年余りの潜伏時代に迫ります。
大きな影響を与えた〈バスチャン伝承〉
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布教当初から各地で組織された「組」、その意義と重要性が浸透したオラショ、殉教の精神……。潜伏期に生きたキリシタンたちを支えたものは、全て宣教師たちの導きによるものでした。ただ、かつてと違うのは、表向きと地下組織、彼らが二重の暮らしを強いられたということ。そんな環境下で人々が信仰を伝承するのに大きな力となった「バスチャン伝承」と呼ばれるいい伝えがあります。
バスチャンとは、外海地方で活躍した日本人伝道師。宣教師ジワンの弟子となり伝道に励んだと伝わります。
ジワンとは、前回紹介した「サン・ジワン枯松神社」に祀られた〈サン・ジワン〉のことです。
ジワンが日本を去った後、迫害は激化。バスチャンは外海の牧野地区、岳の山に潜みキリシタンたちに指導しました。しかし、周辺住民の密告により捕縛。長崎の桜町牢に3年3ヶ月間つながれ78回の拷問を受けた後に殉教しました。
そのバスチャンが残したと伝えられるのが〈バスチャンの日繰り〉〈バスチャンの十字架〉〈バスチャンの椿〉〈バスチャンの四つの予言〉という「バスチャン伝承」です。
現在も出津牧野の現地にはバスチャンが使用した井戸が現存し、「バスチャン屋敷」が復元され、キリスト教徒の聖地となっています。
信仰を守るために生命を捧げたバスチャンの殉教を目の当たりにした潜伏キリシタンたちはどんな思いだったのでしょう。処刑される、あるいは迫害と追放に耐えて命を落とす、そして信仰のための追放も殉教である……キリスト教における「殉教」は、「証人」という言葉に由来しているといいます。つまり「殉教」とみなされるのは、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々に信仰を呼び起こすかということだということ。
今回は、指導者を失うも、命をかけて信仰を守る精神世界に突入した潜伏キリシタンたちの信仰の形、心の拠りどころに触れてみたいと思います。
〈バスチャンの日繰り〉
潜伏時代、外海、五島、浦上地方のキリシタンは、太陽暦によるキリシタン時代最後の教会暦と伝わる〈バスチャン日繰り〉で日曜日や祝祭日を繰り出して決め、オラショを唱え、「組」を機能させ信仰伝承に努めました。
〈バスチャン日繰り〉は、春の彼岸の中日を「サンタ・マリアの御告げの祝日」と定め、ここから始まります。それから9ヶ月にあたる冬至前後が「御身のナタラ(御降誕)」で、それから66日目から「悲しみの節(四旬節)」に入ります。この“入り”から46日目が“上り”と呼ばれる「御復活の日」。46日間、肉を禁じた一日一回の食事という厳しい修行を終え、この日は、肉食をし、御絵や御像の前でオラショを唱えます……。
潜伏時代、キリシタンたちは「冬に祝い、春に悲しむ」と言い、冬のナタラと悲しみの節をとりわけ大切にしました。
ところで、前回長崎地方史研究家、故越中哲也氏が唱える大胆な仮説“現在、長崎の氏神である諏訪神社に合祀される「森崎社」が、かつてキリシタンを祀る神社ではなかったか”というものを紹介しました。
実はその裏付けとなる事案を越中氏はもうひとつ挙げておられます。
それは「森崎社」の祭礼が元禄3(1690)年、神社様式の諏訪、住吉社とは異なる3月9日に開始したということ。つまり、この時、神式の祭礼は初めてでしたが、合祀される以前の神仏習合時代には仏式の祭礼が行われていたのではないかというのです。
仏教的に考えれば花の咲く3月は「彼岸会」。しかし、花の咲く祭日なら4月8日の釈迦の生誕を祝う花祭「灌仏会」があります。越中氏は、当時のキリシタンたちがキリストの「御降誕」より「復活の日」を大事にしていたこと、また、「復活の日」も花の咲くころだった事実を知り「森崎社」の由来にまつわる仮説の信憑性を強められたのです。
そしてそれは〈バスチャンの日繰り〉における「御復活の日」とも符合するのでした。
〈バスチャンの十字架〉〈バスチャンの椿〉
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今もカクレキリシタンの家に秘蔵される〈バスチャンの十字架〉は、バスチャンが捕えられた時、娘の夫に託したと伝わる愛用の十字架で、潜伏時代を通じて人々に崇敬されたといいます。そして〈バスチャンの椿〉もキリシタンたちの崇敬を集めたものでした。
外海に隣接する樫山の「赤岳」は、迫害時代、バスチャンが身を潜め、教えを説き、洗礼を授けていた場所と伝わり「バスチャンの神山」と呼ばれました。
〈バスチャンの椿〉は、この「赤岳」の麓にあった椿の大木のことで、バスチャンがその幹に指で十字架を記すと跡がはっきり残ったことから人々は霊木と崇め、切り分けて大切に保管。死者が出るとその椿の木片を小刻みにして死者の額に白い布で巻き葬りました。そしてついには「赤岳」そのものが神山として礼拝されるようになります。
“三度、岩屋山に登れば、樫山(赤岳)に一度巡礼したことになる。三度、樫山に巡礼すれば一度ローマのサンタ・エケレジア(教会)に巡礼したことになる”と言い、当時、岩屋山(長崎市北西部)を崇めていた浦上の潜伏キリシタンたちは、こぞって「赤岳」巡礼に訪れました。
COLUMN1 外海の潜伏キリシタン
◆外海潜伏キリシタン文化資料館
外海地区の住民らで構成された「外海文化愛好会」の方々が、外海の潜伏キリシタンについて調査研究した成果を公開するために開館した施設。周辺には〈サン・ジワン枯松神社〉があります。本来口伝であるオラショを黒崎地区の潜伏キリシタンの子孫が大正時代に書き写した書や1634年の教会暦を元とする〈バスチャンの日繰り〉と呼ばれる〈バスチャン暦〉、潜伏キリシタンの子孫が伝承した「マリア観音」など、他ではみられない貴重な資料を多数展示。再布教期にパリ外国宣教会が配布したものとされる十字架やロザリオなど、潜伏キリシタンの宗教文化伝統の独自性や価値を伝える施設となっています。(平日は要予約)
外海から五島列島へ
小舟で向かう命がけの旅
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禁教下、キリシタンたちは自分たちの信仰を守るために見果てぬ地へ移住しました。特に大村藩領でキリシタン集落があった外海からは、農民不足を補うために移住者を求めていた五島藩領の五島列島へ、実に潜伏キリシタン、3,000人余りが移住したといいます。大村藩ではキリシタンの取り締まりが激しく、踏絵は毎年励行。その上、極端な産児制限があり、男子は長男を残し、それ以外は殺されたと伝わります。
そんな苦しみから逃れたい――多くのキリシタンは住み慣れた家を捨てて安住の地を求めました。
五島列島への布教は長崎の町よりも早く永禄9年(1566)のこと。最盛期の慶長11年(1606)頃の信者数は2,000人以上でしたが、江戸幕府の禁教政策強化による弾圧により棄教が徹底され根絶してしまいます。つまり、五島における潜伏キリシタンの歴史は、外海からの移住者によってはじまったものなのです。
手形を手に開墾者として堂々と渡る者のほかに、キリシタンを知られないために粗末な小舟で暗黒の大海原へと漕ぎだす者もいました。持ち合わせていたものは、ただひとつ、信じてさえいれば心穏やかに生きていける、そんな「希望」だったに違いありません。
緑豊かな山や孤島へ
五島列島の潜伏キリシタン
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安寧の地を求めて移住した外海のキリシタンたちを待ち受けていたのは、残念ながら過酷な環境であり、島内で少しでも条件の良い場所へと移住を重ねていった結果、80ヶ所にも達する潜伏キリシタン集落が形成されました。その分布を見ると、潜伏先はどこも緑豊かな山や孤島であったことがわかります。
五島列島の北、17の島々で構成された小値賀島の東端から2キロ東に位置する野崎島を拓いたのは、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商、小田傳治兵衛重利でした。その後、五島を北上してきた外海を故郷とするキリシタンが定住。野首集落が形成されました。
野崎島、もうひとつのキリシタンの潜伏先、舟森集落は、平戸藩認可の海運業「室積屋」五代目徳平次が大村港から連れてきた3人の男たちが起源。帰りの荷積みをしていた徳平次は、明日処刑されるというキリシタンの男たちと出会いました。徳平次は、男たちを積んでいた漁網の中に忍ばせ連れ帰りましたが、小値賀にキリシタンは存在しないため、野崎島の人目につきにくい瀬戸脇に降ろしましたといいます。急斜面の山肌にへばりつくように頂上まで広がる舟森の段々畑は、彼らによって開拓されたものです。
COLUMN2 五島列島の潜伏キリシタン
◆久賀島潜伏キリシタン資料館
五島列島中央に浮かぶ3番目に大きな久賀島にも、キリシタン禁制時代、外海地方からの潜伏キリシタンが移住移り住みました。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である「久賀島の集落」には、五島列島最古の木造教会堂「旧五輪教会堂」や、明治元年(1868)、200人ものキリシタンが捕らえられ、わずか6坪の牢屋に閉じ込められて拷問を受け、42名が殉教していった歴史があります。平成30年(2018)の登録年に開館した当館では、久賀島で保管されていた「マリア観音」や、十字架、ミサの合図に使ったほら貝などが展示され、島の歴史を物語っています。
伊王島の潜伏キリシタン
仏教徒と共存した2つの集落
長崎港外に浮かぶ小島のひとつ伊王島。現在は伊王島大橋で陸続きとなりましたが、この地も潜伏キリシタンの島でした。大明寺、沖之島の馬込、両島の境目の船津という三郷で形成された伊王島は、中央部の船津郷は仏教徒で、両端の大明寺と馬込にキリシタンの集落でした。
伊王島キリシタンの出自は、キリシタン禁制が厳しくなった「島原・天草一揆」後に山間部へと避難した外海地方から移住した潜伏キリシタンだと伝わりますが、口碑によると大明寺は外海、黒崎、出津の系統で、馬込は佐賀からの移住であり、言葉の訛りから判断しても出自が異なっていることは明らかなのだといいます。
「海の道」で結ばれた天草
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ところで、潜伏を余儀なくされたきっかけである「島原・天草一揆」で島原のキリシタンは全滅し、以降、島原にキリシタンは存在しませんでした。では、「島原・天草一揆」のもうひとつの舞台、海を隔てた天草地方(現熊本県)の一揆後はどうだったのでしょうか。
大小の島から成り立つ天草地方にキリスト教が伝えられたのは長崎以前、ザビエル日本上陸から17年後の永禄9年(1566)、アルメイダによる布教にはじまりました。
戦国時代の天草の領主は、志岐麟泉(志岐城)、天草鎮尚(河内浦城、本渡城)、大矢野種基(大矢野城)、柄本親高(柄本城)、上津浦種直(上津浦城)の〈天草5人衆〉。最初の布教地は志岐村で、麟泉が入信すると家来も信者となり翌年には教会堂が完成。永禄12年(1569)、河内浦(現河浦)の布教で〈天草5人衆〉は全て転宗しました。
慶長5年(1600)頃の天草は、司教は志岐の駐在所に住み、その付属の伝習所を天草(現河浦)、本渡、神津浦(現上津浦)の3ヶ所に設置。山間には実に45ヶ所の天主堂が点在するなど、長崎同様にヨーロッパ文化が花開きました。天草諸島といえば、大矢野、上島、下島など大小の島々全ての総称で、その中の下島を天草島、下島の河内浦のことを特に天草と呼びました。海外で「天草」と呼ばれたのは、湾の奥の河内浦(現河浦)であったといいます。
「島原・天草一揆」に加担したのは大矢野島、上島と下島の東部のみで、参加しなかった下島の西、南部のキリシタンは一揆以降も潜伏下の信仰を守り続けました。そして、慶長年間、長崎同様、天草でもキリシタン弾圧がはじまります。
天草の潜伏キリシタン
一揆後、天草のそれから
下島の西にある高浜村では、天草諸島が幕府直轄領になって程なく、上田家が代々庄屋職を務めていました。上田家は歴代の当主に教養があり、地元を愛する心が篤かったといいます。江戸中期、庄屋職を務めたのは、上田宣珍。幕府直轄ではありましたが、行政においては島原藩主 松平氏が委託されており、庄屋の任命権も松平氏にありました。この時期、庄屋は士分にも似た礼遇を受けていましたが、それは、“天領からキリシタンなどを出さないで欲しい”という思いの表れでもあったそうです。高浜村に加え、大江、今富を「大江村」という呼称のもと、宣珍が庄屋職を1年ほど兼務していましたが、享和2年(1802)、宣珍が養子にした実弟 友三郎が今富村の庄屋となります。
着任3年目の文化元年(1804)、友三郎は今富村にキリシタンがいると言いはじめます。そして、翌年の天草崩れで高浜村、大江、﨑津、今富村の4ヵ村で、5,000人を超えるキリシタンが発覚するのでした。
巡回する仏僧が訪ねた農民宅で、普通の仏像とは異なる古い銅細工の仏を見つけると、友三郎は農民を呼びつけ「まじないなど、決して致さざるよう」と言い聞かせました。その際、島原藩は改めて「絵踏」を実施。改心を誓って判を押させる形で穏便に済ませました。しかし、その後も信者が少なかった高浜村を除く大江と﨑津、今富村には、表面上は仏教徒のままキリシタン信仰を貫く、いわゆる潜伏キリシタンが残りました。
﨑津集落山側にある「﨑津諏訪神社」は禁教下においてキリシタンたちが密かに集まり祈りを捧げてきた場所。仏教徒を装いつつ参拝時に唱えた言葉は「あんめんりうす(アーメン、デウス)」だったといいます。
COLUMN3 天草の潜伏キリシタン
◆天草ロザリオ館
大江天主堂が建つ丘のすぐ下に立地するキリシタン資料館。マリア観音や弔う儀式に用いた「聖水壺」や「経消しの壺」、潜伏期、密やかな礼拝のために作られた「かくれ部屋」の再現など、天草の潜伏キリシタンの生活、信仰の様子や文化がうかがえる貴重品が多数展示されています。前述した庄屋職の上田宣珍についてや、文化2年(1805)に天草西目筋四ヶ村(大江、﨑津、今富、高浜)で5,000人余りのキリシタンが検挙された「天草崩れ」の実態など、「踏絵」や「宗門改絵踏帳」の現物と一緒に見ると臨場感が増します。
「カクレキリシタン」復活しなかったそれぞれの理由
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先祖から引き継いだ潜伏時代の信仰形態を守り続けている人々を指すのに、現在、「カクレキリシタン」という呼名が市民権を得ています。その名付け親であるキリシタン研究家で元長崎純心大学教授の宮崎賢太郎氏は、著書において彼らについて次のように説いています。
「カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたものを、たとえ意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことなのです。それがキリスト教の神に対してというのではなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えていることから、カクレはキリスト教徒ではなく先祖崇拝教徒と呼んだほうが実際にふさわしいのです」。
平戸島の西岸に位置する標高534メートルの山、安満岳。広い範囲にアカガシの原生林が残り、白山比賣神社参道、山頂部のキリシタン祠と呼ばれる石祠、白山比賣神社と同時代に創建された西禅寺跡から構成されるこの山は、キリスト教禁教時代、かねてからの山岳信仰による宗教観と、キリシタン聖地、殉教地への崇敬が融合し、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた殉教地 中江ノ島とともに平戸地方の潜伏キリシタンの聖地として信仰を集めました。16世紀後半ごろに西禅寺を中心とした山岳仏教勢力が大きな力を持ち、宣教師らと厳対していたことが宣教師たちの書簡により明らかになっています。
現在も平戸島西岸一帯の「カクレキリシタン」は、安満岳山頂のキリシタン祠を参拝し、「神寄せのオラショ」の中で「安満岳様」、あるいは「安満岳の奥の院様」と唱えるのだといいます。また、年間30にも及ぶ行事が行われる集落もあり、そのなかには日本古来の慣習も見られます。やはり「カクレキリシタン」は、先祖から伝わった古いキリスト教と、神仏習合があわさり伝承されてきた特異な民俗信仰であることが窺えます。
COLUMN4 平戸生月の潜伏キリシタン
◆平戸市生月町博物館・島の館
九州の北西端に位置する平戸市生月島。古式捕鯨で知られるこの地は、現在も16~17世紀の祈りの言葉であるオラショを唱え、儀式で使う聖水を汲む中江ノ島を聖地とした信仰形態を色濃く残したカクレキリシタンの島としても有名です。平戸で布教がなされた後、生月島では領主籠手田氏、一部氏が入信。領民の多くもキリシタンになりました。その後平戸藩主は禁教に転じましたが、ガスパル西玄可の殉教、中江ノ島の殉教などの殉教が相次ぎ、信仰者たちは密かに信仰を続けました。当館では、この生月島のカクレキリシタン信仰の様相についてジオラマ(模型)や映像を駆使し分かりやすく紹介しています。
「マリア信仰」の根底にあるもの
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小説『沈黙』の著者、遠藤周作氏は、自身の講演会において、実に興味深い独自の見解を語っています。
長崎を何度となく訪れた遠藤氏は、ゆかりの地を歩き回るうちに、当時、潜伏してまで信仰を貫いた日本人が、どのようにしてキリスト教を受けとめていたかということに強い興味を抱き自身のテーマにしました。
宣教師もおらず、先祖から口伝えに信仰を受け継いだ人々の間では、キリスト教と関係のない神道や仏教の行事が混ざり合った信仰が受け継がれていきました。つまり、かつて日本人の心に入ったキリスト教は、宣教師がいない状況のなかで、ある意味、屈折していったと考えました。そして、それがどう屈折したかを調べれば、日本人がキリスト教をどう受け止めていたかを理解する手がかりになると発想しました。そして、潜伏キリシタンたちが密やかな〈祈り〉の対象物としていたもののなかでも、聖母マリアに関するものが圧倒的に多いことを指摘します。
遠藤氏は、宗教を2つに分けると、裁いたり、罰したりする〈父の宗教〉、一緒に苦しんでくれて、赦してくれて、包んでくれる〈母の宗教〉の2つがあり、外国でも母の存在は大きいだろうが、日本では母を慕う“お母さん宗教”的な一面が強いと説きます。旧約聖書において、一神教の、いわば〈父の宗教〉的な面が強かったキリスト教は、新約聖書になると〈両親の宗教〉になりましたが、潜伏期の日本で口伝えされ変化していく時、この〈父の宗教〉的な側面が薄められ、〈母の宗教〉的な聖母マリアの存在が前面に出てきたというのです。
潜伏キリシタンの「祈りの形」
浦上の潜伏キリシタン、水方のドミンゴ又市は、彼らの習慣について次のように述べています。
「オラショ〈祈り〉は毎日家内一緒に声を揃えて誦える。一週間、父が誦えると、次の週間には母が、またその次の週間には子供が、というようにしている」。
また、帳方の吉蔵の「口書」には、「ガラスサと申す経文」が度々出てきますが、これは「アヴェ・マリアの祈り」の日本語の〈祈り〉であり、そこには、当時の浦上の潜伏キリシタンのほとんどが覚え、祈っていたと記されています。
慶長19(1614)年の宣教師追放時点で、長崎には鐘楼のある教会堂が8つほどあったといいます。時間通りに鳴る鐘の音が消え去ってからも、父母から教わった〈祈り〉は、7代もの人々を経て伝承されていました。宣教師もいない、教会堂もない、いわば形のない信仰生活のなかで、潜伏しながらも信仰を守り抜いたキリシタンたちは、日本独自の先祖崇敬と合わせた独特の信仰世界を作り出していきました。そんななか、遠藤氏が言うように〈母の宗教〉的、聖母マリアの存在こそが、心を癒し安寧へと導く“一筋の光”となっていたのかもしれません。
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後に潜伏キリシタンの家々から発見された「マリア観音」。子を抱く中国渡りの「慈母観音」や日本の「子安観音」など、御像そのものは普通の観音像であり、聖母マリアに見立て、実際に〈祈り〉の対象となっていたものだけが、こう呼ばれます。
また、昭和48(1973)年には、外海 出津のカクレキリシタンの家から御絵『雪のサンタ・マリア』が発見されました。宣教師が伝えた聖母マリアに関する数々の話は、禁教時代、長崎のキリシタンによって語り継がれ、日本の風土に溶け込みながら珠玉の民話となりました。『雪のサンタ・マリア』もそのひとつです。
……4世紀下旬、ローマで夏の一番暑い時、イエスの御母に捧げられる教会の場所を示すために雪が積もった。その奇蹟を行ったのは、聖母マリアであり、奇蹟を成し遂げた後、マリアは天に昇った……
キリシタン時代から迫害時代を経て、代々、命をかけて守られてきた『雪のサンタ・マリア』は、信者の心を受けとめ、慰め続けていたのでしょう。
上五島、若松瀬戸から海路、若松島を南下。いくつかの小島を縫うように進んで行くと、波の影響の少ない入江を利用してハマチなどの養殖業が盛んに行われている風景に出会います。大自然の様々な表情を楽しみながら船は伝説の地へ辿り着きます。
「ハリノメンド」、口に出してみれば、その名の意味に見当がつくでしょうか?
メンドとは「穴」の方言。この若松瀬戸には長い年月をかけ波に浸食された海食崖が多く見られますが、地元の人は干潮時にのみ紺碧の海から姿を現す、「針の穴」と呼ぶにふさわしい浸食洞「ハリノメンド」が聖母マリアの姿に見えると口々にいうのです。
それぞれの道に風が吹く
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1人の司祭もいない、江戸時代の厳しいキリシタン弾圧の下に潜伏したキリシタンにとって最も大きな罪と受けとめていたのはやはり「絵踏」でした。その罪の赦しを求め、家に帰って〈コンチリサン〉のオラショを続けましたが、やがて、罪の重荷は告白〈コンピサン〉によって癒されることを求め、その罪を聴いてくれる司祭〈コンヘーソロ〉の再来を待ち望む願望になっていきました。
〈バスチャン伝承〉の最後、〈バスチャンの四つの予言〉は、7代経つとキリシタンの信仰を公にすることのできる時代が訪れるという、キリシタンの復活、信教の自由、人間の平等を指した予言でした。
「コンへーソロが大きな黒船に乗ってやってくる。毎週でもコンピサンが出来るようになる」――
この〈コンへーソロ〉を待ち望むオラショは、平戸、生月には伝承されませんでした。そしてこの事実が、潜伏キリシタンの「信徒発見」後の道を左右することとなります。
登場した構成資産
関連地
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サン・ジワン枯松神社
もっと見る日本人伝道師・バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀ってある、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社。周囲はキリシタン墓地になっている。ここは江戸時代、黒崎地方の隠れ(潜伏)キリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ伝習してきた聖地。
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バスチャン屋敷跡
バスチャンは伝説の日本人伝道士で、外海や浦上や五島の人々が日繰りや予言などを残した人物として語り伝えてきた。もっと見る
ここは、バスチャンが役人に見つからないように隠れていたと言われる屋敷跡で、人影のない暗い山奥にあります。 -
外海潜伏キリシタン文化資料館
もっと見る外海地区の住民らでつくる外海文化愛好会により、外海エリアの潜伏キリシタンについて調査研究した成果を公開するために開館した施設です。潜伏キリシタンの子孫が伝承したマリア観音や再布教期にパリ外国宣教会が配布したものとされる十字架やロザリオを保存・公開しています。
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馬込教会
もっと見る禁教令下の1871年、馬込に信徒が建てた小聖堂。1884年、馬込の信徒がすべてカトリックとなり、1890年にマルマン神父の設計のレンガ造教会ができるが、台風で尖塔が倒れ、1931年、現教会建立。
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平戸市生月町博物館・島の館
もっと見る捕鯨、かくれキリシタン、民俗、魚の剥製の4つの常設展示室と、企画展示室からなり(展示総面積1,322平方メートル)、日本捕鯨の歴史やかくれキリシタン信仰の様相についてジオラマ(模型)や映像を駆使し、分かりやすく紹介しています。
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遠藤周作文学館
もっと見る角力灘(すもうなだ)を見下ろして建つ文学館は瀟洒な建物で、エントランスホールには『沈黙』の文学世界をイメージしたステンドグラスが施されています。館内には生前の愛用品や遺品のほか生原稿や蔵書などが展示され、彼の生涯や足跡を紹介しています。
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ハリノメンド
もっと見る五島弁で穴のことを「メンズ」又は「メンド」と言い、“針の穴”という意味です。この穴は、マリア様が幼子イエスを抱いている姿(聖母子像)のシルエットに見えることから注目を集めています。
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