長崎新キリシタン紀行-vol.3 弾圧と日本人の信仰心
寛永15年(1638)2月、国中を混乱させた「島原・天草一揆」は終息。
その後、幕府は緊張を高め、鎖国政策で諸外国との交渉を閉ざすと同時に、キリスト教を根絶するために、キリシタンを一層厳しく取り締まりました。
その際、各家必ず一定の仏寺に属す「寺請制度」とともに強いられたのが、キリシタンでないことを証明するために行われた「宗門改め」です。
そして、その吟味のひとつが「絵踏」でした。
信仰を分かつ、絵踏行事がキリシタンに与えた苦痛と、日本人の信仰心に触れてみましょう。
教会堂の鐘から寺院の鐘へ
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キリスト教全盛期、長崎の町では鐘の音が日常生活の習慣を導いていました。深く入り組んだ湾に突き出した岬における人々の住居地域はまだ小さく、周囲を囲む湾の水面に、静かに鐘の音が反響する毎日。そんな日常が禁教令とともに一変します。
建ち並ぶ教会堂は破壊され、その跡地の多くには寺社が建てられました。本蓮寺や大音寺など、初期の寺院がその例です。さらに寛永年間(1624〜43)以降、それはまるで旧市街を取り囲む防壁のように、二列になって隙間なく神社仏閣が建てられていきます。今もその名残が見られますが、そのひとつは長崎駅前の本蓮寺から諏訪神社を経て松森天満宮、そしてもうひとつが寺町の列です。江戸時代には今より数多くの寺社が林立していました。
破壊されたミゼリコルディア本部跡に建てられたのは、現在、鍛冶屋町にある大音寺。この寺には、どの教会堂のものかは不明ですが、破却された教会の鐘が与えられました。改鋳するとはいえ、十字架が刻印された教会堂の鐘は重んじられ、一度寺で使用されると存続する可能性が高かったといいます。
長崎の町中にあふれていた目に見えるキリシタン文化が消え去って以降、あるひとつのものを例外に新たにキリシタンに関わるものがつくられることはありませんでした。
あるひとつのもの――それは人々に強いられた「絵踏」に用いる「踏絵」です。
信仰の対象として崇敬され、それを踏むことで背教の証とし、踏んだことの罪意識と失望からまた立ち上がる意志を失わせるものであれば、紙地の絵、掛物、宗教書、何でも良く、長崎では、初めはキリシタンから没収したメダイ、十字架などを利用していました。そして、「絵踏」の制度化に伴い「踏絵」そのものが定型化していきました。
寛永6年(1629)、長崎奉行 竹中采女正重義は、キリシタンからの没収品のうち、金属製鋳造レリーフ聖像画を板にはめ込んだ「板踏絵」を10枚造りました。以降、心の底で信仰を捨てていないキリシタンにとって、「絵踏」による心理的拷問がはじまります。
今回は、禁教下におけるキリシタンの苦悩と信仰心に迫ってみます。
文学者の心を動かした一枚の「板踏絵」
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雪降るや踏絵荊冠縛手図に 野見山朱鳥
「絵踏」は、春の季語です。キリシタンの多い地方、また、江戸のキリシタン改役で、吟味の一手段として用いられた「絵踏」は、長崎ではいつしか正月の風物詩となっていきました。
「絵踏」する人の哀しみに心を寄せた文学者や芸術家は多く、「絵踏」は度々その主題となりました。なかでも著名なのが、遠藤周作氏の小説『沈黙』でしょう。
キリスト教布教の使命を持って密入国するも捕縛され、ついに「踏絵」を踏むに至ったポルトガル人宣教師ロドリゴの悲劇……また、何度も裏切り「踏絵」を踏むが、その度に〈信心戻し〉をする心弱きキチジローに見る転び者の心情……。〈神の沈黙〉という壮大かつ永遠のテーマに切実な問いを投げかけながら、禁教下の長崎に生きたキリシタンの心模様を浮彫りにした名作です。遠藤氏をこの作品づくりに向かわせたのは、長崎訪問時に出会った1枚の「板踏絵」に残る〈黒い足指の痕〉でした。
『沈黙』には、実在の人物、背教者のクルストファン・フェレイラが登場します。ロドリゴと対面する場面のモデルとなった上町の西勝寺所蔵、正保2年(1645)付「きりしたんころび証文」には、キリスト教を棄てた後、日本人妻を娶り、沢野忠庵と名乗って〈キリシタン目明し〉となったフェレイラ及び、同じく背教者の了順、了伯の誓書が書き添えてあります。潜伏するキリシタンを見つけては奉行所へ通報し、ころび証書にサインをする……遠藤氏は、フェレイラを通し転び者の心理と行動を描きました――。
「島原・天草一揆」終焉後、キリシタン禁制政策の遂行したのは、江戸幕府初代宗門改役 井上筑後守政重でした。彼は宣教師をことごとく死罪にすることで殉教熱を煽るのではなく、キリシタンが多く残存することを承知しつつも“追々いなくなる”ために転宗させることが肝要と考えました。それが「絵踏」であり、背教者による摘発だったのかもしれません。
COLUMN1 長崎市遠藤周作文学館
小説『沈黙』の舞台となったキリシタンの里 外海、角力灘を見下ろす高台に平成12年(2000)に開館。
遺族より寄託された蔵書や草稿、日記、ノート、書簡、写真など約3万点の貴重な資料を保管、その一部を公開しています。また、収蔵資料の調査研究、情報発信にも努め2年ごとに新しい企画展を展開。調査の継続から令和2年には収蔵品から未発表作品『影に対して』が発見されました。『沈黙』以外にも『最後の殉教者』『女の一生』など遠藤文学には長崎のキリシタンをテーマとした作品も多数。自身もカトリック教徒であった遠藤氏の本質に迫る世界感を外海の景観とともに体感することができます。
迫害者の依頼で造られた20枚の「真鍮踏絵」
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罰よりも罪おそろしき絵踏かな 野見山朱鳥
キリシタン検索が激化した寛文年間(1661〜72)に入り、諸藩に貸し出す枚数が増加したため、寛文9年(1669)、長崎奉行 河野権右衛門通定は、本古川町の萩原祐佐という鋳物師に20枚の「真鍮踏絵」を造らせました。「真鍮踏絵」のモチーフは「板踏絵」と同じ、キリシタン全盛時代に宣教師たちが日本に持ち込んだ西洋の宗教美術を用いた〈ピエタ〉〈エッチェ・ホーモ〉〈ロザリオ聖母〉と、「板踏絵」にはない〈十字架上のキリスト〉の4種で、そのすべてにキリストが描かれています。
昭和37年(1962)、〈トードス・オス・サントス教会跡〉から数100メートルの竹やぶの地下1.5メートルの土中から「板踏絵」と同じ〈ピエタ〉が発見されました(日本二十六聖人記念館所蔵)。迫害の折、誰かが故意に隠したと思われるそのレリーフは、表面上、キリシタンではなくなった人々の心の叫びを封じ込めたような哀しみを湛えています。
現在、萩原祐佐が手掛けた「真鍮踏絵」20枚のうち19枚は、前述した「板踏絵」同様、東京国立博物館にて保管。「真鍮踏絵」のレプリカ8点を所蔵する長崎純心大学博物館では、常時2点が展示されています。
COLUMN2 長崎純心大学博物館
◆長崎純心大学博物館
長崎におけるリシタン研究の第一人者、純心女子短期大学(現長崎純心大学)の片岡弥吉教授によって設立。イエズス会が日本での布教状況をまとめた年次報告書「日本年報」1614年度版、キリスト教を禁じる御触書、「踏絵」の絵板、宗門改踏絵帳、潜伏キリシタンが信仰対象としたマリア観音など数々の貴重なキリシタン遺物が収蔵されています。弥吉教授は浦上出身で、最後の大弾圧「浦上四番崩れ」に関する資料も多数。また、当大学の教授であった長崎地方研究家 越中哲也氏収集の史料も保管されています。
ケンペルが見たキリシタン
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元禄3年(1690)に出島オランダ商館医として長崎に渡来したケンペルは、著書『日本誌』の中で次のように述べています。
「宗教心のある国民ならば、外来の異なる宗教に接した場合、それによって何らかの不利益を受けるとか、とくに公の安寧を脅かされるというような惧れがあるのでなければそう無下にその外来宗教を咎めたり、その宣教師を放逐したりはしないものである。日本人は無宗教の国民ではない。この国には、自国固有の宗教もあり、普通いかなる信仰を持つかは厳重に決められるものだが、日本の場合は、各人の思いのままに信仰する神を崇める自由が与えられているのである。道義の実践、敬神の務め、清浄な生活、心の修養、罪業の懺悔、永遠の幸福祈願等については、日本人はキリスト教徒以上に熱心である」。
2度の江戸参府を経験したケンペルの目には、キリシタン禁制下に暮らす当時の日本人は、多様な宗教生活を営んでいるように映っていたようです。
神仏に併せ祀られてキリシタンたち
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全国に3ヶ所あるといわれるキリシタンを祀った神社が、長崎市には2ヶ所あります。そのうち外海黒崎教会の南側の丘にある「サン・ジワン枯松神社」は広く知られる所です。昭和になって造られた拝殿に納められた「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠。サン・ジワンとは外海地方で宗敬されるバスチャンの師と伝えられる宣教師。ここは禁教中に潜伏していた外海のキリシタンたちの祈りの場でした。
もうひとつは稲佐山麓にある淵神社境内にある「桑姫社」で、ここには豊後(現大分県)のキリシタン大名、大友宗麟の孫マセンシアが祀られています。大友氏の没落後、その重臣であった志賀氏は長崎に亡命。後に姫を迎え入れました。彼女は、桑を植え、蚕を飼って糸を紡ぐ手法を近隣の娘たちに行儀作法とともに教えていたことから人々に親しまれ、寛永4年(1627)に病死すると、住まいのあった竹の久保に塚が築かれ、墓所の標にと桑を植えて後世まで土地の神として崇められました。禁教時代、すでに記念碑が建てられたことは驚くべき事実です。明治期には志賀氏と縁深い淵神社に移され現在に至ります。
実は神社だけでなく、仏寺に奉祀された例もあります。琴海戸根町の「自證寺」は、禁教後も棄教を拒み、身を置いていた戸根の庵に宣教師を匿うなどしていた大村純忠の長女 マリイナの菩提を弔うために、万治元年(1658)、彼女の孫である大村藩の家老 浅田安昌が建立した寺院です。
COLUMN3 サン・ジワン枯松神社
外海 黒崎教会の南側の丘にある日本でも珍しいキリシタンを祀った神社。ここは外海地方で宗敬されるバスチャンの師である宣教師サン・ジワンゆかりの地で、禁教中、外海の潜伏キリシタンたちの聖地だった場所です。明治時代につくられた祠のすぐ近くには、大人が数人隠れる程の岩「祈りの岩」があり、潜伏時代、キリシタンが復活祭前の「悲しみの節」の夜にここへ来て、寒さに耐えながら岩影でオラショ(祈り)を唱えていたと伝わります。周囲には自然石を置いただけの古いキリシタン墓地も見受けられます。
詳細はこちら(長崎市の文化財)日本人の信仰心を思えば納得の仮説
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長崎地方史研究家の故越中哲也氏が、著書『長崎初期キリシタンの一考察』収録「長崎諏訪神社内に祀られている森崎社について」で、長崎の氏神 諏訪神社に合祀される「森崎社」が、キリシタンを祀った社祠だったのではないかという大胆な仮説を展開しておられます。
初めて長崎を訪れたポルトガル人の報告には「長崎には人が住まず森に覆われている」とあり、開港前後に森崎の地に祠などなかったとされています。
越中氏は仮説の裏付けとして、「慶安4年(1651)に諏訪社に奉納された梵鐘の銘文には、諏訪、住吉の二社のみが刻んである」「延宝4年(1676)に神輿の新調をした際、諏訪、住吉の二社のみであった」ことのほか、多数の疑問点を指摘。草創期の長崎で森崎と呼ばれた岬の突端には〈サン・パウロ教会〉が建ち、禁教令前には拡大し〈被昇天のサンタ・マリア教会〉となっていました。
日本研究家であるレオン・パジェスの著書『日本切支丹宗門史』には次のように記述があります。
「墓地や、1614年に破壊された教会の跡に行って祈ることを禁止された」――教会堂跡には多くの寺社が建てられました。それは単に土地の再利用だったのでしょうか。破壊された教会堂跡地に追憶、慰霊、鎮魂の意味を込め造られた宗教的記念物が「森崎社」の起源であり、桑姫同様、土地の神として祀られていたものを、後に諏訪、住吉の二神と合祀したものではないか、と越中氏は説いています。
最後の日本人司祭、マンショ小西
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実は海を渡った対馬厳原町の八幡宮境内にも「今宮若宮」と呼ばれるキリシタンが祀られています。今宮とはアウグスティノ小西、即ちキリシタン大名 小西行長の娘 マリア。そして若宮は、慶長5年(1600)、マリアが政略結婚で嫁いだ対馬藩主 宗義智との間に生まれた子だと伝わります。しかし、マリアは義智と離縁。長崎で最期を遂げました。
2人の間に生まれた子どもについての消息は不明ですが、元和9年(1623)の夏、マンショ小西と名乗る数え年二十四歳の青年が、ローマ、イエズス会修練院の門を叩きました。キリシタン司牧にあたった最後の日本人司祭 マンショ小西――この二人が同一人物かは現時点では不明ですが、正保元年(1644)、彼が京都で殉教したことで、日本のキリシタンは孤立し、宣教師不在のまぎれもないキリシタン潜伏時代が訪れました。
移住を余儀なくされたキリシタン
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町建てが行われた時から、諸国のキリシタンの避難所であった長崎の町。しかし、禁教令後、その長崎が迫害最大のターゲットになると、キリシタンたちは、その信仰を守り抜くにふさわしい新たな避難所が必要となっていきました。「絵踏」や「寺請精度」のほかに「五人組連座制」や「懸賞制度」といった幕府の厳しい取り締まりがはじまると、事態は一層深刻さを増していきました。
平戸、旧西彼杵郡、長崎半島、長崎、五島、黒島……これらが、キリシタンたちが潜伏した主な場所です。最大の攻撃の的となった長崎市中のキリシタンたちは、浦上や有馬領だった三ツ山へ。大村純忠の娘 メンシアが嫁いだことで迫害の被害が少なかった平戸では、代わりに町から離れた西の海岸、志々伎や根獅子、生月などに残りました。そして19世紀初頭には、外海地方から海を渡り、布教時代に信者となったキリシタンとその子孫が存在する五島列島へ多くの人々が移住していきました。
密やかな祈りの痕跡
今日、外海のキリシタンは長崎県内カトリック信者の母郷と呼ばれています。彼らの先祖の多くは、明暦3年(1657)に起こった大村藩の「郡崩れ」(多数のキリシタンの検挙)を目の当たりにした大村のキリシタン。同じ藩領の外海地方へ潜伏したと伝わる人々です。外海地区、黒崎教会の南側の丘にあるキリシタンを祀った「サン・ジワン枯松神社」祠の近くには、「祈りの岩」と呼ばれる大きな自然石が鎮座しています。禁教時代、外海のキリシタンたちは、行事の度にここへ来て、声を潜めオラショ(祈り)を唱えたといいます。
慶長5年(1600)、長崎のコレジヨで日本語の祈りの本『おらしょの翻訳』が印刷されています。かねてから宣教師たちはオラショの意義と重要性を信者たちに熱心に指導し、また、信者を育てるために「組」と呼ばれる信心会〈コンフラリア〉を組織しました。「サンタ・マリアの組」「ロザリオの組」「御聖体の組」「ミゼリコルディア(慈悲)の組」「アウグスティンの組」……それらは、それぞれ名前は違ってはいても内容は極めて似通ったもので、信者同志が互いに信心を励まし合う集合体でした。そして、それら信心会はどれも入会の条件のひとつとして、いくつかのオラショを唱えられることを挙げていました。
幕府の政策をヒントに。宣教師たちが導いた道
「組」の組織は会長、会計などがいて各々の役割を果たし、会長たちはそれぞれの「組」の規則に乗っ取り信心を深めます。まだ信仰が自由な時代には、毎日の祈りと、特別な祝い日に教会堂へ行き、祈りを捧げるなど様々な信心がありました。彼らは〈社会福祉〉や〈奴隷〉や〈間引き〉など、信仰以外の社会問題も取り上げ、話し合い、規制を取り決め、宣教師がいない場合は、長崎のコレジヨで印刷された本を読み、互いに理解を深めるような組織だったといいます。そして、宣教師がいよいよいなくなった際、信者たちは自主的に「組」を運営していくようになったのです。
迫害がはじまった当初、町には教会堂も存在し、宣教師も多く残っていました。しかし、宣教師たちがしだいに一抹の不安を感じていったのは確かでしょう。“徳川幕府が続けば、自分たちは全部殺されてしまうに違いない……信者が生きのびるにはどうしたらいいか”。幸い、秀吉の禁教令から徳川の禁教令までには時間がありました。そこで宣教師たちは、迫害当初から信者が出来る限り子孫に信仰を伝えていけるよう、信者の教育と組織を残す工夫を行っていきました。つまり、幕府がキリシタン検挙のために行った「五人連座制」と同じく、「組」をつくることで信仰を守らせようと考え、実行していたのです。
村の有力者である地主や、字が読めるなど、村で尊敬されている人を選び会長になってもらい村人たちを統率してもらう。また、洗礼を授ける「水方」や暦を伝える役割を担う人も育てました。そうして、1人を訴えたら自分の家族にも危害が及ぶため誰もが黙認するような、主に田舎の農村地域において信仰が受け継がれていくこととなります。
潜伏キリシタンを支えたある物語
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外海のキリシタンたちが潜伏したのも、港もなく交通の便も悪く、土地はやせ、食物の実りも少ない人里離れた貧困の村でした。そしてそれは外海に限らず、キリシタンが生きて行く場所はどこもそんな厳しい環境下にありました。
外海を訪れると独特な石を用いて築かれた石積風景に出会います。町の至るところに使われるこの石は、実はキリシタンたちに力を与えた特別な石でもあります。
「天地始之事」――それは、聖書の中の逸話を元に、日本の土着的な思想が加えられ、口伝、あるいは書き留めるなどして外海地方の潜伏キリシタンに代々語り継がれた物語です。
文政年間(1818〜30)、東樫山のキリシタンが記したと推定される「天地始之事」では、エデンの園に住むアダムとエバが禁断の実を食べるという罪を犯して地上へ追放される時、神様が次のように告げます。
“合石のある土地を目指して行きなさい”。
この合石とは、外海の石積に利用されている結晶片岩〈温石〉を指す外海の方言。横から力を加えると割れやすく、熱に強いこの石は、古くから土地の人々の生活必需品でした。そして彼らは“神様が〈温石〉のある所に行きなさいと言ったから、自分たちは〈温石〉のある外海に住んでいる。今は大変だけどいつか必ずきっといいことがある”、そう信じました。
この〈温石〉は、寛政9年(1797)、五島藩の要請で大村領に住む3,000余りの人々が五島へと移住した際、舟の安定を保つバラストとして海を渡りました。
この物語を知ると、今ある外海の「石積風景」がまた違ったように見えてくるようです。
COLUMN4 石積風景
◆外海の石積集落景観
「サン・ジワン枯松神社」祠前、ド・ロ神父も眠る「野道キリシタン墓地」の中世の古城を思わせる石段と石垣、遠藤周作文学館の玄関ポーチの石壁……外海を訪れると必ずといっていい程、独特の石を用いた石積風景に出会います。その石は外海地域で「温石」と呼ばれる結晶片岩。地域の人々はこの万能極まりない「温石」や、これを主とする独特の地質を、土留めの石垣、防波・防風の石築地、居住地の石塀、住居・蔵の石壁などに巧みに活用し暮らしてきました。出津川流域で営まれる近世から続く畑作を中心とした集落景観です。
平成24(2012)年 国選定重要文化的景観選定。
潜伏キリシタンを支えた祈り
ところで、潜伏キリシタンたちによって信仰が守られた地域には、ひとつの共通点があります。それは「絵踏」を踏んだ時や検挙された時に。口先だけで信仰を棄てても、それを悔み改める痛悔の祈り〈コンチリサン〉を知っていて、それをよく唱えていたことです。
慶長8年(1603)、日本司教セルケイラは、長崎のコレジヨで『こんちりさんのりゃく』という本を出版しました。その本の中で、司祭のいない所で告白〈コンピサン〉をする機会を持たないキリシタンも〈コンチリサン〉を唱えることで罪の赦しを神に求められると指導。弱いが故に転んだ信者に義務を負わせることは、再び罪を犯す機会に入らせることと考え、宣教師たちは早い時期から信仰世界で躓くことを避けるために、神父や他の信者の面前で、もしくは自分の良心の範囲だけで、悔い改め、立ち返ることを指導していたのです。
禁教下、この〈コンチリサン〉は、浦上の潜伏キリシタンにとって特に大切なオラショでした。まず毎年正月に行われる「絵踏」。そして死者が出た際、強いられていた浦上の檀那寺 聖徳寺の僧による仏式の葬式において。彼らは仏僧の読経の間、隣室で〈お経消し〉と〈コンチリサン〉のオラショを唱えることに慰めを求めていたといいます。
潜伏キリシタンを支えた殉教の精神
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潜伏キリシタンたちの心を支えたのは、宣教師たちが指導した「殉教の精神」も大きいのかもしれません。迫害がはじまって以降、教会文献にも日本の資料にも記されず、殉教という名のもとに、生命を捧げ神への愛を表現した人々は50,000人以上と言われています。そしてその目的は、ひとえに“信仰を守る”ということにありました。宣教師たちは布教当初から殉教の意味と価値を教えようとしていましたが、それが本格的になったのは秀吉の「バテレン追放令」以降のこと。それらもまた、伝承するに適した刊行物として残されました。
天正19年(1591)、加津佐のコレジヨで刊行された『サントスの御作業の内抜書』は、わが国初の聖人伝翻訳本で、その聖人の大多数は殉教者でした。また、この本に「マルチリヨのことわり」と題する書が掲載されていますが、〈マルチリヨ〉とは、まさしく殉教のことであり、それは、この本の編集そのものが殉教への教育手引書であったことを意味しています。
信仰を守るために生命を捧げる――殉教の精神が備わった潜伏キリシタンの行く先には、その後、幾つもの苦難、哀しい出来事が続いていきます。
登場した構成資産
関連地
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長崎市遠藤周作文学館
もっと見る遠藤文学の原点とされる小説『沈黙』の舞台となった外海(そとめ)地区。独自の歴史と文化を持つ外海に魅せられた遠藤氏は、執筆後もなおこの地を訪れ「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」とまで語ったと言われています。館内には生前の愛用品や遺品のほか生原稿や蔵書などが展示され、彼の生涯や足跡を紹介しています。
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春徳寺(トードス・オス・サントス跡)
もっと見る「トードス・オス・サントス教会」は長崎で最初に建てられた教会堂。県指定史跡となり、春徳寺の入口には「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑が立ち、春徳寺後山には、中国式墳墓の代表的な「東海の墓」もあります。
※キリシタン井戸(外道井)拝観並びに御朱印は前日までの予約が必要です。 -
枯松神社
もっと見る黒崎教会の南側の丘にある、キリスト教の日本人伝道師バスチャンの師、サン・ジワン神父を祀った国内に3ヶ所しかないキリシタン神社。「かくれキリシタンの聖地」とされ「枯松さん」と呼ばれています。神父は潜伏時代、枯松山にある岩屋に隠れ住み、亡きがらは神社が建つ場所に埋葬されました。神社周辺には、板石を伏せて置くキリシタン墓が残っています。
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諏訪神社
もっと見る鎮西大社と称えられ、地元では"おすわさん"と親しまれる総氏神様。創建は1625年。当時はキリスト教が広まり他教を排斥したため、市内の社寺は破壊されることが多く、肥前唐津の青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て造営したものです。1632年には、青木が初代宮司になり、1634年から祭礼を行うようになりました。
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岬の教会(サン・パウロ教会)跡/被昇天の聖母教会堂(被昇天のサンタ・マリア教会)跡
もっと見る長崎が開港された翌年の1571年、イエズス会宣教師のフィゲイレド(ポルトガル)は、町ができた岬の突端に「岬の教会(サン・パウロ教会)」を建てた。さらに、新教会堂を増築中に秀吉の命で解体されたが、その後も増改築や建て替えを繰り返し、1601年、長崎で一番大きな「被昇天の聖母教会堂(被昇天のサンタ・マリア教会)」、同じころに司教館、コレジヨなどの建物が建てられ、教会堂は日本司教が着座する司教座聖堂となった。
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