長崎観光をおトクに楽しむアプリ「STLOCAL」。まずはダウンロード[PR]
長崎新キリシタン紀行-vol.2 「島原・天草一揆」と原城跡-1

長崎新キリシタン紀行-vol.2 「島原・天草一揆」と原城跡

「島原・天草一揆」の舞台、一揆軍が籠城した原城跡からは様々な遺物が出土。
発掘された出土品の多くは、十字架、メダイ、ロザリオの珠といった数々のキリスト教の儀式用品でした。
そしてそのほとんどは人骨とともに発見されたといいます。

なかでも注目すべきは、長崎市内のキリスト教関連施設跡、主にサント・ドミンゴ教会跡〈勝山町遺跡〉から多数出土した「花十字紋瓦」。有馬において初めての発見でした。

この380余年前の遺物は、当時のキリシタンの精神世界へと誘ってくれます。
一揆軍を突き動かした想いとは何だったのでしょうか? 

口之津、天草の旅にその答えを探してみました。
 

潜伏キリシタン関連遺産
     
 

繁栄の最中の殉教事件

有馬のセミナリヨで学んだ4人の少年「天正遣欧使節」が8年半の旅から帰国した時、長崎は20数カ町に発展していましたが、もはやイエズス会領ではありませんでした。

天正15年(1587)、島津征伐のために西下した秀吉が、キリシタンの町と化した長崎の状況を知り伴天連追放令を発布。布教も禁じ、長崎、茂木および有馬晴信がイエズス会に寄進した浦上の地を没収し直轄の天領としたのです。しかし、これは徹底したものではなく、一部の宣教師は国外追放されましたが大部分は長崎、大村、有馬領に潜伏。やがて教会は再建され宣教師も布教を再開しました。しかし、その矢先の慶長元年(1597)、スペイン人宣教師ら6人を含む26人が秀吉の命により処刑される26人殉教事件が起きるのでした。これは日本の植民地化を進めるスペインに対する秀吉流の見せしめともいわれていますが、事実上、日本で信仰を理由に処刑された初めての殉教事件でした。

慶長17年(1612)、家康は天領に禁教令を発布しましたが、豊臣家が滅び、徳川代々の繁栄がはじまる「大坂の陣」まで長崎は表面上、平穏の中にありました。しかし水面下では宣教師たちと地役人との論争、イエズス会士の治政への干渉など様々な問題がありました。そのひとつがイエズス会とドミニコ会との軋轢。日本人に〈施物を与える〉イエズス会派の宣教師たちは〈施物を求める〉貧しいドミニコ会士を敵視したのです。

実際、全国から流入する膨大なキリシタンにとっては清貧のドミニコ会が最も頼りになる指導者でした。信仰祈禱の主対象を御聖体といいますが、〈聖体賛美〉の気運が高まった1600年以降に多く設立されたコンフラリア(信心会・兄弟会)のひとつ、ドミニコ会員で組織する「ロザリオの組」は、最盛期には2万人が登録。互いに信心を励まし合う集合体でした。それは長崎のみならず大村、有馬領のキリシタンも同様です。しかし、人々にしっかりと根付いた信仰心を挫くように弾圧という魔の手が忍び寄ってきます。

今回は、有馬領におけるキリスト教繁栄から「島原・天草一揆」までを追ってみます。

南島原、華麗なる繁栄

  • -1

    島原半島では島原城を中心に、南部を南目、北部を北目と呼びますが、布津町から口之津、加津佐にかけての南目が、室町期半ばより半島全域を領有してきた有馬氏の中心地でした。有馬氏の大祖が藤原氏であることから、日野江城下の北有馬には、古くから氏族の氏神である春日神社があり、現存する古社は今も町の産土神として崇められています。

    口之津港が南蛮貿易港として開港したのは、長崎開港以前の永禄5年(1562)。長崎地方の初期伝道に務めたルイス・デ・アルメイダにより布教がなされ、長崎を開港した大村純忠の実兄、領主 有馬義貞が改宗すると、領民の多くはこれに倣いました。

    布教直後、アルメイダは与えられた寺院を改修。翌日には荘厳な天主堂とし、教会堂近くの高台に高さ5メートルの十字架を設置しました。また、その傍の土平崎にも「岬の聖母小聖堂」が建てられました。永禄10年(1567)、口之津港に念願のポルトガル船が入港。その後も布教長トーレスが移住し日本布教の中心としたことで、ポルトガル船は全て口之津に碇を下ろし、南蛮貿易による収益は莫大なものとなりました。

    永禄11年(1568)のアルメイダ書簡は、口之津の人口は1,200人程で一人の異教徒もなく静穏であること、彼らは大いなる信心を持って祝日を祝い、聖木曜日には口之津教会から岬の聖母小聖堂まで行列を成したと伝えています。

キリシタンの町に立ち込める暗雲

  • -1

    天正8年(1580)は有馬領で大きな変化があった年です。

    3月、藩主となった義貞の次男 晴信がイエズス会巡察師ヴァリニャーノにより洗礼を受け、その数ヶ月後には有馬にセミナリヨが創立。そして、有馬領である茂木が長崎とともにイエズス会に寄進されたのです。実は、有馬氏はこの時すでに佐賀龍造寺隆信軍によって圧迫を受け版図を縮小していました。それにも関わらずヴァリニャーノが晴信を支援し、有馬領をキリスト教の拠点として盛り立てたのには、その領地を重視していたという見方が有力です。陸海路を織り交ぜた長崎から島原半島、高瀬経由豊後街道に至る「キリシタン宣教の最重要路」完成には、茂木から口之津への最短海路が不可欠だったのです。

    ところで、ヴァリニャーノは晴信の受洗の条件として領内の寺社破壊と領民の改宗がありました。宣教師たちに扇動されたキリシタンたちは過激さを増し、仏教や神道の信者を激しく攻撃。それらの行動に警戒感を抱いたのが将軍 家康でした。そして、慶長17年(1612)、晴信がキリシタンの幕府役人と図り領地拡大を狙っていたことが発覚(岡本大八事件)すると家康は晴信を死罪とします。一旦公収された有馬領地は棄教した晴信の嫡子 直純に与えられました。その後、直純の後見人および目付役となった長崎奉行 長谷川藤広左兵衛とともに、直純はキリシタンに非道な弾圧を進めていきました。

    翌慶長18年(1613)、全国へ禁教令が発布。
    この年の4月、直純は、父晴信とその後妻ジュスタの間に生まれた異母弟2人を殺害しています。

強まる迫害と教会堂の破壊

  • -1

    キリシタンを取り巻く環境が変化したのは、慶長19年(1614)。前年末に発せられたキリシタン禁教令が原因となり、おそらくこのとき、長崎の町の教会堂は閉鎖されたと推察されています。時の長崎奉行 長谷川藤広左兵衛は禁教令の知らせを受けた時から諸問題を抱えていた長崎の町に手をつけるのを避け、まず大村・島原・鍋島の各地方から取り締まっていきました。
    有馬領の迫害は、棄教しない武士の妻子を裸体にして域内を引き廻し辱めるなど、ことのほか残忍なものであったため、キリシタンたちは妻子とともに自殺しようとしたと言います。そしてその過ちを覚り、代表の者が領主に「万一の場合は武士を以て其母及び姉妹の名誉を保障せん」と宣言します。これら各地の迫害の様子を聞いた長崎のキリシタンたちは宗教的熱意に包まれ、4月末から5月末まで、続々と御聖体行列を行いました。その様子はまるで、キリシタンが放つ最後の壮麗な花火のようだったといいます。

    同年10月、幕府はキリスト教徒および聖職者148名をマカオとマニラに永久追放。続く11月、イエズス会をはじめとした宣教師が木鉢、福田両港から国外追放され、その直後から、キリスト教文化で華やいだ長崎に点在する教会堂の破壊がはじまったのです。そしてそのほとんどが同年のうちに破壊されました。幕府厳命下、破壊に携わったのは、鍋島、寺沢、有馬、大村、松浦各藩兵であり、同年11月12日、寺沢藩兵によって破壊されたのが、サント・ドミンゴ教会〈勝山町遺跡〉でした。

    そしてこの年、良心の呵責に耐えかねた有馬直純は、幕府に転封を願い出、慶長19年(1614)、日向国延岡城主となります。その際、家臣の多数は牢人し、日野江城下に残り帰農。彼らが「島原・天草一揆」の中核となっていくのでした。

出土品が語りかける「キリシタンの魂」

  • -1

    有馬氏の居城、日野江城と原城は二つで一対を成す――キリスト教のはじまりと終焉の象徴です。
    永禄6年(1563)、キリスト教が伝わり、寛永15年(1637)、「島原・天草一揆」が起こる約80年に島原半島で起きた栄華と衰退は途方もないものでした。

    平成4年度から発掘調査が実施された本城 日野江城の支城として貴純によって築城された有馬氏の居城 原城跡。「花十字紋瓦」が出土したのは、肥前日野江初代藩主 晴信の代に大幅な改修工事が行われたと推測されている原城本丸に入る最初の門跡でした。ここにはキリシタン大名の城を象徴する施設があったと考えられていますが、出土した花十字紋瓦片の断面はかなり摩耗していました。他に出土した瓦片の断面とは明らかに異なるのです。

    発掘調査に携わっていた元南島原市教育委員会の松本慎二氏は、著書『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』における「原城・日野江城の発掘調査概要」にて次のような仮説を立てておられます。
    「慶長19年に長崎の諸教会や関連施設が破壊されている。この瓦礫の山と化した教会跡から花十字紋瓦の破片を拾い信仰の対象物として大切にしていたものを、原城籠城の際に持ち込んだものと考えられないだろうか。破片面が摩耗しているのはそのためではないかと思われる」。(発掘出土品の一部は、現在、有馬キリシタン遺産記念館に展示)

    有馬のセミナリヨで西洋絵画を教えていた宣教師ジョバンニ・ニコラオがデッサンし、多くのキリシタン墓碑にも刻まれた花十字。華やぐキリスト教文化に彩られた長崎の町の教会堂に使用されていた「花十字紋瓦」はキリシタンのお守りであり、聖地長崎の何物にも代え難い土産品であった……。往時のキリシタンの信仰の姿を想起させる浪漫あふれる仮説です。
     おそらく、茂木の小さな港から穏やかにきらめく橘湾を越え、有明海へ−―。原城跡から出土した「花十字紋瓦」の旅路に心惹かれます。

コラム

COLUMN1 原城跡-1

COLUMN1 原城跡

明応5年(1496)、領主 有馬貴純によって築かれたといわれる海城跡。周囲4キロの三方を有明海に囲まれた、美しくも難攻不落の天然の要害で、別名「日暮城」。元和2年(1616)、松倉重政が入封し、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したため廃城に。そして、寛永14年(1637)、原城に一揆軍が籠城。「島原・天草一揆」の舞台となりました。昭和13年5月30日、国の史跡文化財に指定。西有家町の民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓石が移されています。

詳細はこちら(世界遺産のまち南島原)

コラム

COLUMN2 有馬キリシタン遺産記念館

世界文化遺産の構成資産である「原城跡」など、南島原市におけるキリシタン文化の繁栄からキリスト教が弾圧され衰退の一途を辿った歴史を、動画や発掘出土品などの展示からわかりやすく紹介。予約するとスタッフによるギャラリートークも体験も可能です。

有馬キリシタン遺産記念館について

コラム

COLUMN3 吉利支丹墓碑(キリシタン墓碑)

共同墓地にある現在地の地下から昭和4年(1929)に発見された慶長15年(1610)没のキリシタン「フィリ作右衛門ディオゴ」の墓碑。日本語の音読をそのままポルトガル式つづりのローマ字で表現した碑文は日本で最古のもの。蒲鉾型の石材は砂岩で、均整のとれたフォルム、3種類の十字紋と碑文が刻まれているのが特徴です。

詳細はこちら(長崎県の文化財)

島原藩主の苛酷な弾圧

教会堂の破壊と前後し、長崎の町ではキリシタン根絶のため仏教を広める措置が取られました。現存する長崎市内の寺社を一所に集めた寺町界隈はこの頃形成されたものです。その寺のひとつ、清水寺は、当時京都清水寺唯一の末寺であり、祈願寺として商人や朱印状を手にした貿易家たちの信仰を集め、彼らにより盛り立てられていました。

寺の象徴、本場「清水の舞台」を擬し、寛永4年(1627)に改造された石欄の寄進者は、直純の転封2年後に入部した島原藩主 松倉重政。関ヶ原の戦い以降、家康に取り入り、旧有馬領を与えられ移封した重政は、自己の利益のためには計り知れない勇猛心を発揮する男でした。それは、わずか4万余石の知行でありながら、従来あった日野江城と原城を廃し、10万石大名の城に匹敵する分相応な島原城を築城。家臣の人数を越える武器を城内に蓄え、江戸城改築の公儀普請10万石相当の出費を自ら幕府に頼み込んだことなどから伺えます。清水寺の壮麗は石欄もまた、朱印船貿易家であった彼の自己顕示欲を示すものだったのでしょう。言うなれば、この費用を捻出するために島原の領民は過酷な搾取を受けたのです。

入部当初のキリシタンに対する措置は緩やかで、弾圧の気配すらなかった重政でしたが、寛永2年(1625)、将軍 家光に謁見した際、その手ぬるさを指摘され変貌。藩の石高を実高より高く見積もり、領民へ税を課す強引な取り立てを行う一方で、キリシタンに対する過激な拷問や処刑を開始します。そして重政の死後、政治姿勢を継承した勝家もまた、過酷な取り立てを行っていくのでした。

口之津から天草へ「キリシタンの心を追って」

口之津から島鉄フェリーに乗り込み、デッキから町を見渡すと、かつての海岸線が思い浮かぶようです。「南蛮船来航之地」の石碑が建つ場所から内陸部へ――。近隣の方に尋ねると、今は湿地を利用した公園のその場所は、ひと昔前まで水田だったといいます。そもそも水田が少ないのも島原の人々を苦しめた一因でした。

元亀2年(1571)の長崎開港によって交易の地は長崎へ。また、神学校の立地から布教の中心は有馬へと移されましたが、開港当初に建てられた2つの教会堂のある口之津は、その後も信者たちの拠点であり続けました。

フェリーが出港すると、しだいに港の全貌が見えてきます。この景観、山裾を縁取るように建つ家並みを除いては、当時からあまり変わっていないのかもしれません。穏やかな有明海から忽然と姿を現す山塊。緑したたる自然美に吸い込まれるように、宣教師を乗せた船は小さな入江へと入り、そして船出していく――。そっと目を閉じると、彼らが幾度となく目にし、今は跡形もない教会堂を取り巻く風景が見えてくるようです。

「島原・天草一揆」は、寛永14年(1637)10月、弾圧と重税にさらされた島原、天草のキリシタンたちの蜂起にはじまります。島原のキリシタンは島原城城下へ押し寄せ、天草のキリシタンは本渡に攻め寄せ富岡城を囲みました。しかし、双方ともに退却。廃城となった原城に籠城し、宣教師らが去る際に言い残したポルトガルの援軍を待ちました。そもそものはじまりは一揆直前に彼らがキリシタンに立ち帰ったことでした。そしてその背景には天草四郎時貞の存在がありました。

一揆軍の幟旗に見る「島原・天草一揆」

年に四回、不定期で公開されている天草キリシタン館保存「天草四郎陣中旗(正式名 綸子地著色聖体秘蹟図指物)」。薄明かりの下、ショーケースに収められた実物を前にすると、その幟旗は想像していたよりも大きく、息を飲むほどの衝撃を受けます。卍崩しに菊の地模様が施された上質な絹の布地の中央には、柄のついた聖杯が描かれ、その上に十字架の入った聖体聖瓶、左右の天使がそれを拝む構図。最上部にポルトガル語で「至聖なる聖体の秘跡は讚美されよ」と記されたこの幟旗が、一揆軍結束を象徴する「島原・天草一揆」における軍旗でした。血痕による染み、刀や槍による裂傷には、生々しくも380余年前の乱の凄まじさを見せつけられます。

聖体賛美が高まった、当時の時代背景が投影されたこの図柄の作者は、宣教師に手ほどきを受けた南蛮絵師 山田右衛門作だと伝わります。銅版画のように粗密、交錯の効果を使った線で輪郭や陰影を表現する西洋画の技法は、非常に熟練した技とされ、右衛門作のものである可能性が高いとされています。

コラム

COLUMN4 天草キリシタン館

島原・天草一揆で使用された武器や国指定重要文化財の「天草四郎陣中旗」、キリシタン弾圧期の踏み絵、隠れキリシタンの生活が偲ばれるマリア観音など、約200点を展示。
4つのゾーン(天草キリシタン史、南蛮文化の伝来と島原・天草一揆、乱後の天草復興とキリシタン信仰)に分け、解りやすく解説しています。「天草四郎陣中旗」は貴重な文化財保護のため通常レプリカを展示。年4回・各1週間程度実物を公開しています。

天草キリシタン館公式サイト

天草四郎の矢文から読み取れるもの

三度に渡る幕府軍の猛攻撃にも屈しない一揆軍の元に、寛永15年(1638)正月、乱の追討使〈知恵伊豆〉の異名を持つ松平伊豆守信綱が送り込まれました。信綱は兵糧攻めによる持久戦を見据え、ポルトガルの援軍を待つ一揆軍にダメージを与えるべくオランダ船による砲撃、矢文を放つなどの心理作戦を試みます。幕府軍による初期の矢文では、「籠城の理由は将軍 家光、あるいは藩主 勝家のキリシタン弾圧による恨みであるか」尋ね、「恨みに理があるなら和談してもよい」と伝えています。一方、一揆軍の矢文の内容は似通っており、「両者への不満ではなく信仰の容認を求め蜂起した。籠城は国家を望んだり国王に背いたりするためではない」というものでした。

幕府に示した天草四郎の矢文の巻頭言には『天地同根万物一体 一切衆生不撰貴賤(天も地も根は同じで、全ての物は一体である)』とあります。一揆軍が望んでいたもの。それは、幕府側が恐れるような信仰でもなく、宣教師の思惑などとも関係のない、純粋に〈平等〉と〈安寧な生活〉を望む、個々人の姿だったのではないでしょうか。この精神は、藩側に味方し一揆軍と戦った村々の民衆にも相通じるように思えます。何故なら、従来、神仏への信仰が篤かった人々にとっては、キリシタン大名支配下にあった頃の神仏迫害と信仰強制も、苦しみであったに違いないのですから。

正月26日より、島原(有馬)地域の元領主、日向延岡藩主 有馬直純も幕府軍として参戦していました。そして、この直純との矢文のやり取りにより、一揆軍副大将であった山田右衛門作は幕府軍に寝返り、一揆軍唯一の生き残りとなります。

落城後、右衛門作は信綱に連れられ江戸へ上り、キリシタン改めを行ったと伝わり、その後の行方は諸説あります。しかし近年、宮崎県に彼のものと伝わる位牌が存在することが判明しました。その位牌の上部を外すと、そこに墨で書かれた十字架が現れるのです。その地は、右衛門作の旧主 有馬直純の転封先、かつての日向国です。

「島原・天草一揆」の影響とその後

京島原の女郎に、江戸吉原の張りを持たせ、
長崎の丸山の衣装を着せ、
大坂新町の揚屋で遊びたし


井原西鶴が『好色一代男』に記した有名な一節に登場する京の島原。誰もがもしや?と思うこの京「島原」の地名は、長崎県島原半島の地名に由来しています。「島原・天草一揆」は、幕府に多大な影響を与えただけではなく、その噂は瞬く間に全国の民衆へと知知れ渡りました。寛永17年(1640)頃に移転した京の花街は、正式には「西新屋敷」といいましたが、俗称「島原」の名で定着。なぜ島原と呼ばれるようになったかというと、四方を包囲された様が「島原・天草一揆」で一揆軍が立て籠った城の様であったからとも、引っ越しの大混乱があたかも「島原天草の乱」のようであったからとも言われています。ともかく、当時、「島原・天草一揆」は日本中に衝撃を与えた大事件なのでした。

この一揆において、一揆軍は37,000人余りの殉難者を出しました。そのなかには、幕府軍に加わり戦死した者も多数いました。一揆に参加したのは、南目と呼ばれる島原半島南部の人々と天草10カ村の人々であり、当然ながらこれらの地は亡地となりました。そのため寛永19年(1642)、乱後の復興と生産体制を確立させる措置として、全国に天草・島原地区への強制移民令が出されました。移住してきたのは、遠くは美濃辺りからの西部一帯におよんだといいます。強制移民として島原入りした中には、当時天領であった小豆島の人々もいました。

「島原天草の乱」が残したもの

島原には、とかく曰く付きの名物が多く、数々の具材を煮込んだ郷土食「具雑煮」も、一揆軍の籠城食であったと伝わりますが、実は「島原手延べそうめん」も「島原・天草一揆」を機に移住した小豆島の人々によって伝わり、伝承されてきた島原名物です。

一方、海の向こうのお隣さん、天草にも、特産の真鯛一匹を姿煮で仕上げ、その煮汁をベースとしたつゆでそうめんを戴く「鯛そうめん」があります。しかし、天草ではそうめん作りはされておらず、使用しているのは今も昔も島原そうめんなのだとか。文化は伝播し、人が、地域が発展させていく−―。大自然に抱かれ、辛く貧しい日々を乗り越えてきた先人たちの逞しさが、郷土に根付く食文化を生んだのです。

それにしても、キリスト教が伝来し繁栄した長崎県下の町々では、現在、神社仏閣と教会堂が混在する風景が珍しくありませんが、布教が盛んに行われ、一時は領民のほとんどがキリシタンであった島原半島において、それは例外のようです。島原市内中心部、白土湖近くの旧街道沿いに、江戸時代の面影を残す町家群があります。そこに隣接する日本二十六聖人の殉教400年、「島原・天草一揆」から360年にあたる節目の年に建立された「島原殉教者記念聖堂」だけが、唯一、この町にキリスト教時代の存在を伝えてくれるのかもしれません。

キリスト教全盛の面影がないこと。それこそがまさに厳しいキリシタン弾圧の痕跡なのでした。

※この特集は、季刊誌 樂(らく)に掲載された「新キリシタン紀行〜伝承者たちの道行き〜」「続新キリシタン紀行〜明治宣教師がつないだ精神(こころ)」を、新たな読み物に再構築したものです。

登場した構成資産

関連地

  • 南島原市有馬キリシタン遺産記念館-1

    南島原市有馬キリシタン遺産記念館

    世界文化遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産である「原城跡」をはじめ、「日野江城跡」、同時に信仰を支えた教育機関「有馬のセミナリヨ」などを紹介しており、長崎におけるキリスト教の伝来と繁栄、激しい弾圧、キリシタンの潜伏から復活など一連の歴史を学ぶことができます。
    もっと見る
  • 吉利支丹墓碑-1

    吉利支丹墓碑

    ローマ字文が刻まれた墓碑として日本最古とされる蒲鉾型の墓碑。共同墓地にある現在地の地下から1929(昭和4)年に発見された。1610年になくなった「フィリ作右衛門ディオゴ」というキリシタンのものである。
    もっと見る
  • 清水寺-1

    清水寺

    長崎山清水寺は元和9年(1623年)、京都音羽山清水寺の僧慶順によって開創されました。現在の本堂は寛文8年(1668年)に唐商何高材により建立されたもので、日本の様式に当時の中国様式(黄檗様式)を取り入れた長崎ならではの 建築様式となっています。

    もっと見る
  • 南蛮船来航之地-1

    南蛮船来航之地

    永禄10年(1567年)ポルトガル船3隻が入港し南蛮貿易として栄え、また、天正7年(1579年)にはキリシタン布教の根拠地となり西洋文化の窓口として世界に知られるようになりました。(長崎県指定史跡)

    もっと見る
  • 具雑煮-1

    具雑煮

    島原・天草一揆の時、天草四郎は兵糧の餅と山海の材料で雑煮を炊いたといわれます。
    これをもとに初代糀屋善衛エ門が生み出したのが具雑煮の始まりと伝えられています。優しい味の島原の郷土料理です。

    もっと見る
  • 島原手延べそうめん-1

    島原手延べそうめん

    じっくりと時間をかけて熟成させることで生まれる強いコシとなめらかな口あたりが特徴

次の特集記事へ

 弾圧と日本人の信仰心

   
潜伏キリシタン関連遺産

 

SHARE

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。詳細はクッキーポリシーをご確認ください。