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長崎新キリシタン紀行-vol.1 キリスト教の伝来と繁栄-1

長崎新キリシタン紀行-vol.1 キリスト教の伝来と繁栄

今も各地に長く守り続けられている教会堂が点在する長崎県。
街なかに溶け込んだその光景は、 長崎の代名詞、異国情緒を代表するものと言っていいでしょう。

ところで、それらが建てられる遥か昔、 県内各地に多くの教会堂が存在していたことをご存知ですか?
長崎において、南蛮貿易とともに伝来したキリスト教の歴史は、 長崎県のはじまりの歴史。

まずは、その歴史を知るために、約480年前、 キリスト教全盛期、16世紀の長崎へタイムスリップしてみましょう。
   
潜伏キリシタン関連遺産
     

 

長崎、キリスト教全盛期の記憶

天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルを乗せたポルトガル船が鹿児島に上陸すると、その翌年、松浦隆信が治める平戸を訪れ、南蛮貿易とともに長崎のキリスト教布教の歴史がはじまりました。ザビエルは、僅か2年余りで同行した布教長コスメ・デ・トレース神父、ファン・フェルナンデス神父らに日本布教を託し退去。その後、ルイス・フロイス神父、ルイス・デ・アルメイダ修道士などが続々と渡来し、西日本での布教活動が活発に行われます。

永禄5年(1562)、大村領主 大村純忠は、松浦領の鼻の先にある横瀬浦を南蛮貿易港とし、教会堂を建立。翌年にはキリスト教に改宗しキリシタン大名となります。また同年、純忠の実兄 島原領主 有馬義貞が領内の布教を許し、貿易港 口ノ津(口之津)を開港すると、純忠は貿易港を福田(現長崎市)に移し、時を同じくして五島領主 五島純定も布教を許可しました。 その後純忠は、長崎領主 長崎甚左衛門の娘と婚姻を結び、長崎の町を領地にします。

永禄10年(1567)、アルメイダ修道士による布教が開始。そして元亀2年(1571)の長崎開港へと至ります。草創期の長崎の町は、「小ローマ」と呼ばれるほどに南蛮文化に彩られ、町建てにてできた6つの町には、全国各地のキリシタンたちが移り住むという日本でも類い稀な場所となりました。

1569-1619――これは長崎の町に教会堂が建ち跡形もなく消えるまでの年月です。今回は、長崎を舞台に繰り広げられた喜びと哀しみの物語を現在に残る普段使いの言葉から、稀少な遺物から、宣教師をはじめとした外国人の書簡から紐解いてみましょう。

ポルトガル語が飛び交う「長崎の町」

南蛮貿易とともにはじまったキリスト教布教当初の様子を思い浮かべるとき、どうしても気になるのが「言葉の壁」です。

その目で目撃した『日本二十六聖人殉教記』を最後に残し、慶長2年(1597)、長崎の地で帰天したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、フアン・フェルナンデス神父から日本語や日本古来の風習などを学びました。滞日30数年、信長から秀吉へと続いた激動の時代を生き、彼らとも接触していたフロイス。信長への謁見は実に18回を越えたといわれています。

最初の頃は通訳を介していたフロイスでしたが、元亀3年(1572)、布教長カブラルの信長訪問の際は通訳として同行。以後、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノなどにも通訳として同行し、双方の間を取り持ちました。

当時、イエズス会内における公用語はポルトガル語であり、長崎市民のほとんどはキリシタン。教会で祈り、説教を聴聞。讃美歌をうたい、諸儀式に臨み、その行列に常に参加していれば、ポルトガル語はごく自然に浸透していく……よってその頃の長崎人とポルトガル人の間に通訳は必要なかったと考えられています。

キリシタン全盛期に浸透した言葉

ザビエルによる布教当初、「神」を真言宗でいう「大日」と訳したため仏教と区別がつかず、民衆らは混乱。その失敗をきっかけに、キリシタンに関する重要な概念を表す語については、訳語主義から原語主義を採用する方針が確立されました。

デウス(天主)…エケレジア(教会堂)…サカラメント(秘跡)……これらの言語は、当時の流行語となり、どの家庭でも新しい信仰のことが話題に上がるほどに興味を集めたのだそうです。その結果、来日以降、市中に雑居したポルトガル人の影響を受けた長崎の言葉の中に、または各地に伝播し確立した日本語の中に、当時から伝わるポルトガル語が数多く存在しています。

バンコ…ゼンチョ…ボタン…タバコ…ランドセル……。ボタン、タバコ、ランドセルはご周知の通り。バンコは長崎弁で縁台、ゼンチョは異教徒を意味する言葉です。

布教と教育活動の教科書を生んだ印刷機

天正7年(1579)、純忠は肥前国全体の領主 龍造寺に領地を奪われることの恐れと、貿易港としての存続、キリシタンが迫害から逃れる避難所としての役割の確保などの理由から、イエズス会に長崎と茂木をまるごと寄進したいと申し出ました。これを企画遂行したのはトレース神父、受諾、交渉人が巡察師ヴァリニャーノだといわれています。

天正18年(1590)、天正遣欧少年使節とともに再び長崎の地を踏んだ巡察師ヴァリニャーノ。リスボンから持ち帰った活版印刷機は、すでに3年前、秀吉が発布していた〈バテレン追放令〉という情勢に対応し、船積みのまま島原 加津佐のイエズス会教育機関、コレジヨへと廻送。しかし、ヴァリニャーノは、公然とできない布教活動の役割をこの印刷機に見出します。一般大衆への布教と教育活動で使用する教科書類の出版です。

加津佐のコレジヨで最初に出版された『サントスの御作業の内抜書』以降、この印刷機はコレジヨとともに天草へ渡り、二十六聖人殉教の年には長崎の地へ。慶長18年(1613)までの24年間に、記録上で数十種、現存するものでは29種の「キリシタン版」と呼ばれる秘密出版物が製作されました。その中に、慶長8年(1603)、長崎のコレジヨで出版された『長崎版 日葡辞書』があります。

イエズス会宣教師と修道士らによってつくられたこの辞書は、後に日本布教に訪れるフランシスコ会、アウグスティン会、ドミニコ会らの宣教師たちにとっても良き教科書となりました。

コラム

COLUMN1 天正遣欧少年使節-1

COLUMN1 天正遣欧少年使節

ヨーロッパへ視察の旅をした4人の少年たちのこと。正史 伊東マンショ(大友)、千々石ミゲル(有馬)、副使 原マルチノ(大村)、中浦ジュリアン(大村)、九州のキリシタン大名 大友宗麟、大村純忠、有馬晴信ゆかりの子弟から選ばれました。天正10年(1582)2月、使節団はポルトガル船に乗り、長崎からヨーロッパへ向かいました。途中、マカオにしばらく滞在。インド洋を渡り、喜望峰を廻ってポルトガルに到着したのは天正12年(1584)8月のことです。スペイン国王フェリペ2世、ローマ教皇との謁見を果たし、訪れた西欧全ての場面で最大級のもてなしで歓待されました。彼らが帰国した際、日本第一号となる活版印刷機を持ち帰ったことや、秀吉に謁見し、西洋楽器と歌唱にて日本で初めて西洋音楽を披露した話など、その功績は後世語り継がれ広く知られるところですが、「天正遣欧使節」最大の功績は、豊かな文明を築く国として、世界地図に描かせるまでに日本を西欧に知らしめたことでしょう。この「天正遣欧少年使節」を企画、プロデュースし、同行したのも巡察師ヴァリニャーノでした。

コラム

COLUMN2 イエズス会教育機関(セミナリヨ、コレジヨ、ノビシャード)-1

COLUMN2 イエズス会教育機関(セミナリヨ、コレジヨ、ノビシャード)

カトリック教会の修道会(組織)のひとつ、イエズス会の神学校。天正8年(1580)に受洗し、キリシタン大名となった島原有馬領主 有馬晴信。日野会城下に設置されたイエズス会の教育機関〈セミナリヨ〉からは、オルガンクラヴサンと呼ばれる鍵盤楽器の音が流れ、油絵を学び描く少年たちが見られたといいます。かつて75,000人を越えるキリシタンが存在し、ヨーロッパで有馬といえばセミナリヨの町と知られていました。〈セミナリヨ〉では宣教師ほか、音楽士、絵師、伝道士なども養成され、卒業までの期間は7、8年。大学にあたる〈コレジヨ〉では神学、哲学、天文学などを3年ほど学び、後には日本仏教まで学ばせたといいます。セミナリヨ卒業生の中でも神父になることを希望する、イエズス会修道士の理論と実際を学ぶ修練院〈ノビシャード〉もありました。これら教育機関はイエズス会独自のもの。ここでは画学舎も生まれています。「花十字」をデッサンしたイタリア人宣教師ジョバンニ・ニコラオがここで西洋絵画を教えていました。

書簡が伝える当時の記憶

長崎最初の教会は、開港以前、永禄12年(1569)建立の〈トードス・オス・サントス教会〉。時の領主であった長崎甚左衛門純景から譲り受けた寺の木材を利用してガスパル・ヴィレラ神父が建てた、神父曰く、「小さかったが、美しい」教会です。しかし、元亀2年(1571)の開港により、新しい町がつくられると、元々の長崎の中心に建てられていたこの教会は2位に落ちます。ベルチョル・デ・フィゲレイド神父によって、町の突端の波止場の傍らに小さな〈サン・パウロ教会〉が建てられ、そこにイエズス会の教会施設が置かれたのです。人々は新たに誕生した岬の町々を〈長崎〉と呼ぶようになり、ポルトガル人たちは〈トードス・オス・サントス教会〉の地を「長崎の郊外」と記録するようになります。

16世紀末頃、東洋のキリスト教では3つのコレジヨが有名でした。1つはゴアのサン・パウロ、もう1つはマカオのサン・パウロ、そして長崎のサン・パウロです。いずれのコレジヨにもイエズス会の本部が置かれ、司祭(パードレ)や伝道師(イルマン)たちの教育施設であるとともに、信者たちの文化交流の場でした。そしてそこには必ず、マリア様に捧げられた教会が建てられました。

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ふたつの「サンタ・マリア教会」

長崎の〈サン・パウロ教会〉は、大村純忠が新しい岬の町々と茂木の町をイエズス会に寄進した天正8年(1580)より建て替え工事がはじまり、増改築を重ねるも工事半ばで秀吉による〈バテレン追放令〉で閉鎖。しかも天正20年(1592)には、秀吉の命で取り壊されてしまいます。翌年、秀吉は教会再建を許可。新しい教会は僅か31日で出来上がったといいます。しかし、当時の長崎の信者をすべて収容するだけの大きさではなかったため、イエズス会は大きな教会をつくることを決め、再改築に着手。慶長6年(1601)、〈被昇天のサンタ・マリア教会〉と名付けられた教会堂が完成しました。

加津佐、天草と転々とし、一旦〈トードス・オス・サントス教会〉に置かれていた印刷機は、遅くとも、慶長4(1599)年初めまでには、コレジヨとともにこの新たな教会に移されたことが、同年2月付け、イエズス会総長宛のロドリゲス神父の手紙から読みとれます。

 「コレジヨの人々は、長崎に近いある村にいたが、いま長崎の同じ家に集まった。そしてイルマンたちがもっと楽に、おちついて勉強できるように、教会をつくった。(中略)これらの教室は海の方に向いて別に作られ、非常によくできている。(後略)」。

そしてもう一つ、聖母マリアに捧げられた教会堂がありました。町から少し離れた立山の山の山裾に建つ、美しい名の小聖堂〈山のサンタ・マリア教会〉です。

この頃の長崎の様子を今に伝える書物に、当時、この教会から200メートル程離れた上町に住んでいたスペインの商人、アビラ・ヒロンの『日本大国記』があります。〈被昇天のサンタ・マリア教会〉の教会とコレジヨとの間には中庭があったこと。ミサのときには教会の階段にも人があふれていたこと。人々に親しまれ、町の発展とともに大きくなっていった〈山のサンタ・マリア教会〉の祭壇の上には、実に素晴らしい聖母の画像があったことなど、彼の詳細な記述は、一瞬にして私たちをキリシタン全盛期であった長崎の町へと誘ってくれます。

慶長6年(1601)、〈山のサンタ・マリア教会〉近くにクルス町の墓地が移されると、町から墓地までの道も新設され石畳が敷かれました。裏路地の風情漂う、現在の八百屋町通りです。

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「アントニオ村山等安」という男

カルメラ…ボーロ…コンペイトウ。布教当初、宣教師が信徒を誘うために用いたと伝わる南蛮菓子の甘い衝撃は、人々の心を鷲づかみ。かの信長もフロイスからの献上品、金平糖入りフラスコ一壷をいたく喜んだそうです。そんな南蛮菓子作りを得意とするひとりの男がいました。一説には、カステラの製法を直伝されたともいうその男の名は、村山等安。秀吉の時代、全盛期であった南蛮貿易と迫りくる禁教の狭間で我が信じる道を突き進んだ風雲児、初代のキリシタン代官です。

長崎奉行所設置の際、代官の座に着任した彼は、その任命も、はたまた命名までも太閤 秀吉公から賜ったと伝わる強者です。しかし、彼が厳しい禁教下の折、キリシタンたちの先頭に立ち、追いつめられた神父らを匿い、支えた末、信仰を貫き通した殉教者であったことはあまり知られていません。等安の人物像について『長崎拾芥』には以下のように記されています。
「諸国を徘徊し、気、万人に勝れ、風流之道にもうとからず、貴賎之選びなく、其の気に応じて愛敬よろしき者」。

しかし、代官職に就き多大な富と権力を持った等安は、あちこちに囲った女たちに湯水のように金を使い、家族を苦しめ堕落していきました。このことが原因か、あるいは代官としての職責上の問題かは不明ですが、若い頃から受けてきたイエズス会士の保護を離れ、いつしかイエズス会士たちは等安を敵と考えるようになっていきます。

全盛期の教会堂建設を支えた貢献者

しかし、やがて等安は回心し、まるで別人のように信仰に生きるのでした。二男フランシスコのために〈サン・アントニオ教会〉を建て、すでに建てられていた〈サン・ペドロ教会〉〈山のサンタ・マリア教会〉〈サン・フアン・バプチスタ教会〉にも多額の金を寄附し、町から〈山のサンタ・マリア教会〉への道に新設された石畳に面した土地をドミニコ会に譲ると、そこに〈サント・ドミンゴ教会〉が建立されました。在日朝鮮人たちのための〈サン・ロレンソ教会〉〈サン・フランシスコ教会〉〈サン・アウグスティン教会〉も等安の援助によって建てられた教会堂です。イエズス会士も信じかねたその散財ぶりは、金の正しい使途がはじめてわかったという思いに満ちているようだったといいます。

しかし、やがて等安は末次平蔵の悪意に満ちた企みに陥り失脚します。等安が代官職にあったときは長崎のキリシタン信徒への迫害は極力おさえられ、一人の殉教者も出ませんでしたが、末次平蔵が代官に成り代わると、長崎の町一帯で多くの殉教者が出る迫害が行われるようになっていったのです。

かつてのイエズス会領 茂木の町から

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    かつてイエズス会に寄進された茂木の町。宣教師たちは、何度となくこの静かな港から島原や天草へと渡ったことでしょう。慶長年間(1596-1615)、等安はこの茂木の地に豪壮な別邸と教会を建て、キリスト教布教の便をはかりました。神父たちはその別荘を、まるでお城のようだったと記しています。

    キリスト教全盛期から弾圧期へ。日本側の記録にはない、長崎にキリシタンたちが歩んできた道のりを、それぞれの時代、この町でともに生きた神父たちの膨大な記録があぶり出しています。

    元和6(1620)年8月以降に記されたドミニコ会、モラレス神父の「長崎代官・当安(等安)に関する報告」には、次のようにあります。
    「当安のこの寄進や徳にもかかわらず、私は彼を聖人に列することは希望しません。むしろ私は彼がこの数多の財産や権力を以って放縦な生活をしたことを認めます。しかし(彼の不行跡をあばくよりも)善行を話す方がよいのでありましょう。」

    1569--1619年までの間、所在地不明も含めると、長崎の町には16の教会が存在していました。しかし今、かつてのキリシタンたちが「生きた証」は、ことごとく消え、あるのは、ごく僅かな遺物と遺構、町なかに点在する教会堂跡地を示す小さな記念碑だけです。

「花十字紋瓦」が語る教会時代

つまり、それ以前は本格的な発掘調査は実施されておらず、南蛮貿易によって「小ローマ」と呼ばれるほどに栄華を極め、キリスト教文化に満ちあふれていた時代の痕跡は、町の地中に埋もれたままだったということです。調査の開始から10数年の間に、〈万才町遺跡〉〈興善町遺跡〉〈勝山町遺跡〉など12遺跡において、16世紀末から17世紀初頭にかけての「メダイ」や「十字架」、キリシタン墓碑にも刻まれている花十字紋を施した「花十字紋瓦」などが相次いで発見されたました。新知見がもたらされたのは平成12年(2000)。桜町小学校建設に伴う勝山町遺跡の発掘調査で発見された教会遺構である敷石(石畳)、排水溝、石組の地下室でした。いかにも、等安の援助で建てられた〈サント・ドミンゴ教会〉の遺構です。

また、それまでの発掘状況との比較による新たな発見もありました。他の遺跡、全8調査地点から出土した「花十字紋瓦」が全部で17点であったのに対し、〈勝山町遺跡〉からの出土総点数は1ヶ所だけで85点に及んだのです。この発掘成果は、「花十字紋瓦」が教会施設に使用されていたことを静かに物語っています。

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イタリア人宣教師、ジョバンニ・ニコラオ

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    この瓦に施された「花十字」は、県内のキリシタン墓碑にも使用されているなど、当時の長崎地方においてキリスト教を示す文様であり、そのモチーフは、天正11年(1583)、イエズス会によって派遣されたイタリア人宣教師、ジョバンニ・ニコラオのデッサンに基づくものだといいます。彼は宣教師であるとともに画家であり、天正18年(1590)頃から天正遣欧少年使節の4人も学んだ有馬のセミナリヨで西洋絵画を教えていた人物。前述した〈山のサンタ・マリア教会〉の祭壇の上の聖母の画像も彼の作品と考えられています。

    「花十字紋瓦」には7種のバリエーションがあることが判っています。それは、ニコラオの来日以降、長崎のほとんどの教会が破却された慶長19年(1619)までの約30年間、激しい弾圧が進む一方で、長崎のキリスト教文化が地域性を取り込みながら進化を遂げていったことを意味しています。

    また、「花十字紋瓦」の発掘分布が教会跡に集中していたという事実は、教会堂の屋根に使用されていた可能性を色濃くする発見でもありました。南蛮寺とも呼ばれた当時の教会堂は、現存する南蛮屏風に見られるように東洋風の建築物だったと伝わりますが、随所には洋風の造形が施された教会固有の建物でした。それはきっと、南蛮菓子同様にこの町に衝撃を与え、異彩を放っていたことでしょう。そして、そんな教会堂も、花十字紋瓦も、メダイも、大切な信仰の対象物でした。

    しかし、林立していた教会堂のほとんどが姿を消した1614年以降、キリシタンたちは形なき信仰の時代へ突入していくことを余儀なくされます。

跡形もない町に……記念碑が示すもの

〈トードス・オス・サントス教会〉跡の春徳寺参道に、長崎にキリスト教を布教したルイス・デ・アルメイダの記念碑があります。昭和43年(1968)、長崎ポルトガル名誉領事館事務所が設立され、その名誉領事・副領事を支援する日本ポルトガル協会「長崎日ポ協会」が創立。この「長崎日ポ協会」の最初の事業がこの記念碑の建立でした。年に一度の総会と基調講演、秋の「キリシタン史跡見学会」が続行されています。

すべてが破壊されたこの町において、記念碑が持つ意味は大きいものです。長崎の歴史はポルトガルとの交流からはじまった……いつまでも記憶にとどめておきたい事実です。

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コラム

COLUMN3 トードス・オス・サントス教会-1

COLUMN3 トードス・オス・サントス教会

◆トードス・オス・サントス教会跡(華嶽山春徳寺)
永禄12年(1569)、長崎で最初に建てられた教会跡。禁教令の取り締まりにより元和5年(1619)に破壊。後に現在の春徳寺が建立されました。敷地内にはキリシタン時代の井戸「外道井」があり、祭事に使用されていたと推測されている大理石の板などが現存します。前日までに予約をすれば見学することもできます。料金無料(献金箱への寄付をお願いします。)

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コラム

COLUMN4 勝山町遺跡-1

COLUMN4 勝山町遺跡

◆サント・ドミンゴ教会跡資料館(勝山町遺跡)
慶長14年(1609)、ドミニコ会のモラレス神父は、鹿児島を逃れるとき教会堂を解体し、長崎のキリシタン代官・村山等安が寄進したこの土地に教会を建てました。小学校の建て直しの際の発掘で出てきた石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸など、南蛮時代~代官屋敷時代の様々な出土品を展示しています。

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※この特集は、季刊誌 樂(らく)に掲載された「新キリシタン紀行〜伝承者たちの道行き〜」「続新キリシタン紀行〜明治宣教師がつないだ精神(こころ)」を、新たな読み物に再構築したものです。

関連地

  • 天正遣欧少年使節顕彰之像-1

    天正遣欧少年使節顕彰之像

    ヴァリニャーノ神父は、大村純忠、大友宗麟、有馬晴信のキリシタン大名の名代として、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4少年をローマに派遣しました。
     そして、出発してから8年5ヶ月という大旅行の末、天正18年(1590年)帰国しました。
     少年達は、活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献しました。

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  • 南島原市有馬キリシタン遺産記念館-1

    南島原市有馬キリシタン遺産記念館

    世界文化遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産である「原城跡」をはじめ、「日野江城跡」、同時に信仰を支えた教育機関「有馬のセミナリヨ」などを紹介しており、長崎におけるキリスト教の伝来と繁栄、激しい弾圧、キリシタンの潜伏から復活など一連の歴史を学ぶことができます。
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  • 春徳寺(トードス・オス・サントス跡)-1

    春徳寺(トードス・オス・サントス跡)

    「トードス・オス・サントス教会」は長崎で最初に建てられた教会堂。
    大村純忠の家臣でキリシタン・長崎甚左衛門がイエズス会のアルメイダに与えた土地に、1569年ビレラ神父により建てられました。その後焼き討ちにあい、1603年に新しい教会堂が建てられ、禁教令後に、春徳寺が建ちました。

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  • サント・ドミンゴ教会跡資料館-1

    サント・ドミンゴ教会跡資料館

    1609年、ドミニコ会のモラレス神父は、鹿児島を逃れるとき教会堂を解体して、長崎代官・村山等安が寄進した土地に建てた。この時代の石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸などが、小学校の建て直しの際の発掘ででてきた。公開中。
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  • 横瀬浦公園(ルイス・フロイス像)-1

    横瀬浦公園(ルイス・フロイス像)

    横瀬浦は、イエズス会が宣教活動のために大村純忠と協定を結んで開かれた港で、1562年、ポルトガル船が入港した。教会堂が建ち、港町として賑わうが、開港から1年後、純忠の義弟の反乱で横瀬浦が焼失。

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  • 南蛮船来航の地-1

    南蛮船来航の地

    永禄10年(1567年)ポルトガル船3隻が入港し南蛮貿易として栄え、また、天正7年(1579年)にはキリシタン布教の根拠地となり西洋文化の窓口として世界に知られるようになりました。(長崎県指定史跡)

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  島原天草の乱と原城跡
  
 
潜伏キリシタン関連遺産

 

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