【ローマ教皇来日】長崎から平和を願う~世界遺産と祈りの旅
ローマ教皇、38年ぶりの来日!11月24日に長崎を訪問されました。
ローマ教皇フランシスコ台下が長崎を訪問されました
2019年11月24日 38年ぶりにローマ教皇が長崎の地へ!
ローマ教皇の来日は、1981年のヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目。
フランシスコ教皇来日のテーマは、「すべてのいのちを守るため〜PROTECT ALL LIFE」
東京のほか、原爆の被爆地である広島と長崎を訪問されました。
ローマ教皇長崎訪問~長崎から世界へメッセージ~
38年振りに長崎を訪れたローマ教皇。訪問をVTRで振り返りながら、ローマ教皇が発信した平和や核兵器廃絶への重要なメッセージや長崎のキリスト教信者への思いなど、今回の来崎の意義をお伝えします。
雨の中、長崎に到着したフランシスコ教皇
-
爆心地公園
朝から冷たい雨が降りしきり、時折雷も鳴り響く中、長崎市の爆心地公園に到着したフランシスコ教皇は、原爆落下中心地碑に献花・黙とうをした後、核兵器廃絶を訴えるスピーチを行いました。核兵器についてのメッセージ -
日本二十六聖人殉教地(西坂公園)
日本二十六聖人殉教者へ祈りを捧げるためこの地を訪れた際も雨風は止むことなく、強風の中で献花・キャンドルの点灯、スピーチを行う姿が印象的でした。 その後、併設する記念館内を見学しました。もっと見る
約3万人が参列した教皇ミサ
長崎訪問の最後には県営野球場でミサを行い約3万人が参列しました。
ミサの時間が近づくに連れ、午前中の大雨が幻のように晴れ渡り、青天の中ミサが執り行われました。
「パパモービレ」と呼ばれるオープンカーに乗って、参列者の大歓声に応えました。
フランシスコ教皇のメッセージ
長崎原爆資料館にて展示
「すべてのいのちを守るため」をテーマに来日したフランシスコ教皇。
長崎原爆資料館では、教皇の直筆メッセージと、爆心地公園での式典で使用した燭台やろうそくを展示しています。
フランシスコ教皇は原爆資料館には立ち寄りませんでしたが、事前に記帳を依頼しており、休憩中に記したということです。
メッセージは資料館の芳名録にイタリア語で記されています。
(メッセージの日本語訳)
この資料館を訪れるすべての方々にお願いします。平和のために祈ってください。
決して破壊があってはなりません、決して戦争があってはなりません!
ローマ教皇来日の歴史をふりかえってみましょう
38年前、日本のキリスト教史上はじめて来日したローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世
日本にキリスト教が伝来して以来、はじめて来日したローマ教皇がヨハネ・パウロ2世です。
1981年2月26日(木)、長崎では例年にない大雪の中、歓迎集会が長崎市の松山競技場で開催され、
5万人に近い参加者が県内外から集まり、ヨハネ・パウロ2世を歓迎しました。
-
大雪の中開催された歓迎集会
(写真)長崎新聞社提供
-
場内を周遊するヨハネ・パウロ2世
(写真)長崎新聞社提供
《教皇の足跡を訪ねて》浦上教会
ヨハネ・パウロ2世訪問地
原爆投下によって一瞬にして全壊した浦上教会は昭和34(1959)年に鉄筋コンクリートで再建され、昭和55(1980)年、ヨハネ・パウロ2世が長崎を訪れたのを機に外壁が煉瓦タイルで改装されました。
浦上教会では2月25日夕方に叙階式(新司祭の任命式)、翌26日朝に聖職者とのつどいが行われました。
-
浦上教会での歓迎風景
(写真)長崎新聞社提供
-
浦上教会
もっと見る
《法王の足跡を訪ねて》日本二十六聖人殉教地
ヨハネ・パウロ2世訪問地
自ら「巡礼者の一人として来日した」とおっしゃるヨハネ・パウロ2世は、この日本二十六聖人殉教地を訪れ祈りを捧げ殉教者を称えるメッセージを発表しました。
その中で西坂の地を『至福の丘』と命名しました。
なお、ローマ教皇フランシスコ台下もこの地を訪問される予定です。
-
記念碑の前でメッセージを発表するヨハネ・パウロ2世
(写真)長崎新聞社提供
-
日本二十六聖人殉教地(西坂公園)
もっと見る殉教の様子が描かれたレリーフが建つ丘
《教皇の足跡を訪ねて》日本二十六聖人記念館
ヨハネ・パウロ2世訪問地
-
歴史史料を見学するヨハネ・パウロ2世
(写真)長崎新聞社提供
-
日本二十六聖人記念館
もっと見る二十六聖人殉教の地に建つ資料館
日本における聖フランシスコ・ザビエルの渡来から明治時代までのキリスト教の歴史を紹介
《教皇の足跡を訪ねて》大浦天主堂
ヨハネ・パウロ2世訪問地
(写真:長崎新聞社提供)
信徒発見の聖母像と対面。集まった人々は祭壇前でヨハネ・パウロ2世の祝福を受けました。
大浦天主堂は2015年に「信徒発見」から150年を迎え、記念ミサが開かれました。
大浦天主堂と浦上教会には、ヨハネ・パウロ2世の像が建てられています。
世界に伝えたい、長崎の物語
2018年世界文化遺産登録「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教
長崎では1550年に平戸で布教が開始。1563年には大村純忠が受洗し、初のキリシタン大名となりました。
しかし、豊臣秀吉の伴天連追放令に続く江戸幕府の禁教令により、信徒たちは密かにその信仰を受け継ぐ「潜伏キリシタン」として生きることを余儀なくされました。
信仰を隠しながら続けていくために、様々な信仰形態がそれぞれの集落ではぐくまれ、独自の信仰のかたちにより、2世紀にわたって潜伏キリシタンの信仰が継承されました。
1873年、明治政府は禁教の高札を取り除いた後、潜伏キリシタンはカトリックへ復帰する者、禁教期の信仰形態を続ける者、神道や仏教へと改宗する者へとそれぞれ分かれましたが、カトリックに復帰した集落では新たに素朴な教会堂が建てられていきました。その土地には、ひたむきな心で信仰を守り抜いた人々がいます。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統の歴史を物語っています。
関連史跡をめぐる
長崎県内にはたくさんの教会や関連した史跡が点在しています。
バチカン公式巡礼地
長崎にはバチカン公式巡礼地も多くあります。こちらもぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
(写真)雲仙地獄殉教地の碑
1627(寛永4)年から1631(寛永8)年まで雲仙の焦熱地獄で、キリシタンに信仰を棄てさせるための拷問と処刑がおこなわれた記録がある。
長崎から平和への願いと祈りを
今こそあらためて平和の尊さを長崎の地で感じてみませんか。
ローマ教皇フランシスコ台下は、2018年1月、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真に「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えたカードを配布し、平和の大切さを訴えています。
ここも注目!
ローマ教皇フランシスコ台下は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ。イエズス会の出身です。
イエズス会とは、イグナチオ・デ・ロヨラを中心とする7人の同志によって設立されたカトリックの男子修道会で、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが創立者の一人です。
フランシスコ・ザビエルやイエズス会にゆかりのある場所を紹介します。
-
平戸ザビエル記念教会
もっと見る1931年(昭和6)に現在地に建設され、1971年に1550年のザビエル平戸来訪を記念して教会脇に「ザビエル記念像」が建立され、教会の名称が「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれるようになったが、近年、正式名称を「平戸ザビエル記念教会」と改めました。
-
中町教会
もっと見るザビエルが信仰の原点としていたのが、「ほほえみの十字架」です。この十字架はザビエルが亡くなったとき、血のような汗を流したと伝えられ、スペインでは奇跡の十字架と言われています。世界にただ一つしかない「ほほえみの十字架」のレプリカが中町教会の祭壇中央に安置されています。
-
岬の教会(サン・パウロ教会)跡/被昇天の聖母教会堂(被昇天のサンタ・マリア教会)跡
もっと見る長崎が開港された翌年の1571年、イエズス会宣教師のフィゲイレドは、町ができた岬の突端に「岬の教会(サン・パウロ教会)」を建てました。1601年、長崎で一番大きな「被昇天の聖母教会堂(被昇天のサンタ・マリア教会)」、同じころに司教館、コレジヨなどの建物が建てられ、これ以前の1593年には、日本イエズス会本部が置かれ、この地には代々重要な施設が置かれました。
450年におよぶ、想いの物語
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がもつ価値を世界の人々に知っていただき、受け継がれてきた物語を伝えるため、ふだん表舞台に立つことのないシスターの方たちが、受け継いだ想いを、未来へとつなげるために、今回特別に出演をしてくださっています。
※4分50秒以降は長崎のキリスト教の歴史を解説しています。最後までご覧ください。
SHARE
NEXT