教会めぐり(大村・西海・外海コース)
1563年、大村純忠が日本最初のキリシタン大名になると、領民3万人のほとんどがキリシタンになったといわれます。
ところが純忠の長男である大村藩初代藩主の喜前は、大村藩の存続のために棄教し、その後、藩は過酷なキリシタン弾圧をおこないました。
キリシタンは辺境の西彼半島のさらに西岸へ。痩せた石ころだらけの斜面を耕しながら、息をひそめ信仰を守り続けました。
- 所要時間:1日
- 交通手段:車
-
印刷する
START
JR大村駅から車で10分
鈴田牢跡
1617(元和3)年から5年間、宣教師たちが収容された牢屋跡。
1617(元和3)年から5年間、宣教師たちが収容された牢屋跡。4年間入牢したスピノラ神父が書き残した牢の平面図と手紙から、12畳の鳥籠のような牢屋だったことがわかっている。
住所 | 〒856-0841 長崎県大村市陰平町(鈴田川河口。国道34号線、与崎交差点からすぐ) | |
---|---|---|
電話番号 | 0957-53-4111 |
車で15分
放虎原殉教地
郡崩れによりキリシタンが処刑された場所
大村の処刑場跡。明暦3年(1657年)、603人の潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関係する場所。
郡崩れのキリシタンのうち131人が万治元年(1658)に殉教した。
伊達政宗が派遣した支倉常長ら慶長遣欧使節をローマに案内したソテロ神父も、ここで処刑されたとされる。
この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が行われていくこととなった。
この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が行われていくこととなった。
現在、その跡には、銅版のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられている。
住所 | 〒856-0820 長崎県大村市協和町(国道34号線松並2丁目交差点に案内あり) | |
---|---|---|
電話番号 | 0957-53-4111 |
車で5分
首塚
郡崩れのとき、放虎原で処刑された殉教者たちの首を胴体と離して埋めたと伝えられる場所。
郡崩れのとき、放虎原で処刑された131人の殉教者たちの首が、キリシタンの妖術で胴体とつながるのを恐れて、離して埋めたと伝えられる場所。キリシタンの復活に対する信仰から生じた話と考えられる。
住所 | 〒856-0811 長崎県大村市原口町(国道34号線、原口住宅入口交差点近く) | |
---|---|---|
電話番号 | 0957-53-4111(大村市観光振興課) |
車で5分
胴塚
郡崩れの131人の殉教者の胴体を埋めたと伝えられる場所。
車で5分
獄門所跡
郡崩れで処刑された殉教者の首を晒されたという場所
郡崩れで処刑された131人の殉教者の首が塩づけされ、みせしめのため20日間晒されたという場所。
1968(昭和43)年、聖母像が建てられた。
1968(昭和43)年、聖母像が建てられた。
住所 | 〒856-0814 長崎県大村市松並1丁目(松並1丁目公民館敷地内にある) | |
---|---|---|
電話番号 | 0957-53-4111(大村市役所) |
車で10分
大村純忠終焉の地(坂口館跡)
日本初のキリシタン大名大村純忠が隠居し、1587年、55歳で亡くなった地。
日本初のキリシタン大名大村純忠が隠居し、1587年、55歳で亡くなった地。未亡人は、同年、伴天連追放令が出されたとき、ここに宣教師をかくまい、息子の大村喜前が1606年に棄教するまで、イエズス会が使用していたという。
住所 | 〒856-0017 長崎県大村市荒瀬町大門(国道444号線と長崎自動車道が交差する地点) | |
---|---|---|
電話番号 | 0957-53-4111 | |
営業時間 | 終日 | |
休日 | なし |
車で70分
横瀬浦公園
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス上陸の地
横瀬浦は、イエズス会が宣教活動のために大村純忠と協定を結んで開かれた港で、1562年、ポルトガル船が入港した。教会堂が建ち、港町として賑わうが、開港から1年後、純忠の義弟の反乱で横瀬浦も焼失する。
今、港の周辺は歴史に基づいて公園化され、ルイス・フロイスのほぼ等身大と言われている像をはじめ、教会をイメージした展望台があり、かつて南蛮船の目印とされた白い十字架の建つ「八ノ子島」や港町の風景が楽しめる。資料館では横瀬浦の歴史を紹介している。
2008年11月には、西海市出身の中浦ジュリアンの列福を記念した十字架が近くに建てられた。
今、港の周辺は歴史に基づいて公園化され、ルイス・フロイスのほぼ等身大と言われている像をはじめ、教会をイメージした展望台があり、かつて南蛮船の目印とされた白い十字架の建つ「八ノ子島」や港町の風景が楽しめる。資料館では横瀬浦の歴史を紹介している。
2008年11月には、西海市出身の中浦ジュリアンの列福を記念した十字架が近くに建てられた。
住所 | 長崎県西海市西海町横瀬郷2933-12 | |
---|---|---|
電話番号 | 0959-37-0064(西海市商工観光物産課) |
車で20分
中浦ジュリアン記念公園
ローマを指さすジュリアン少年像が立つ
天正遣欧使節の副使・中浦ジュリアンは、ヨーロッパの記録で中浦の領主(大村氏の家臣・小佐々氏の一族)の子であり、「館」とよばれた所が生誕地とされる。現在、記念公園がある。西坂で殉教し、2008年11月24日188福者のひとりとなった。
住所 | 〒857-2221 長崎県西海市西海町中浦南郷 | |
---|---|---|
電話番号 | 0959-37-5833(西海市観光協会 観光事業部(旧長崎オランダ村内)) | |
営業時間 | 9:00~18:00 観光ガイド9:00~16:00 |
|
休日 | 無 |
車で35分
大野教会堂
信徒のためにド・ロ神父が設計し、私財を投じて信徒とともに石造りの教会を建てた。
大野は、1599年の平戸領主松浦氏の弾圧で長崎に亡命したキリシタン籠手田一族にゆかりあると伝えられる地。1893年、信徒のためにド・ロ神父が設計し、私財を投じて信徒とともに石造りの教会を建てた。
※大野教会堂の内部は非公開となります。
教会見学にあたってのお願い
大野教会堂の見学は(個人・団体問わず)事前連絡が必要です。
住所 | 〒851-2427 長崎県長崎市下大野町2619 |
---|
車で10分
出津教会堂
生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を投じて建てた質実剛健な教会。
1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を投じて建てた質実剛健な教会。
教会見学にあたってのお願い
出津教会堂の見学は(個人・団体問わず)事前連絡が必要です。
住所 | 〒851-2322 長崎県長崎市西出津町2602 |
---|
車で5分
遠藤周作文学館
外海が舞台となる小説『沈黙』を書いた遠藤周作の生涯や足跡を紹介する資料館
遠藤文学の原点とされる小説『沈黙』の舞台となった外海。東シナ海を臨み、素晴らしいロケーションに建つ瀟洒な文学館。眼前に雄大な外海の自然が展開する。館内には遠藤周作の生前の愛用品、遺品、生原稿、膨大な蔵書などが展示され、彼の生涯や足跡を紹介している。
住所 | 〒851-2327 長崎県長崎市東出津町77番地 | |
---|---|---|
電話番号 | 0959-37-6011 | |
営業時間 | 9:00~17:00(入館受付は16:30まで) | |
休日 | 12月29日~1月3日 |
車で5分
黒崎教会
黒崎も、ド・ロ神父が宣教と救済をおこなったキリシタン集落
1897年にド・ロ神父の指導で敷地が造成され、1899年から建設計画が進行、1920年に完成した、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台ともなった黒崎の地に建つ教会。
聖堂は信徒が奉仕と犠牲の結晶として一つひとつ積み上げたレンガで造られている。煉瓦造、平屋、桟瓦葺(さんかわらぶき)の簡素な構成が煉瓦の美しさを際立たせており、深い奥行を持つ内部はリブ・ヴォールト天井と呼ばれ、ステンドグラスが印象的だ。付属する鐘楼は隠れキリシタンの帰依を願って設置されたもの。
住所 | 〒851-2324 長崎県長崎市上黒崎町26 | |
---|---|---|
電話番号 | 0959-37-6011 | |
休日 | 特になし |
車で5分
枯松神社
外国人宣教師を祀る国内に3ヶ所しかないキリシタン神社
黒崎教会の南側の丘にある、キリスト教の日本人伝道師バスチャンの師、サン・ジワン神父を祀った国内に3ヶ所しかないキリシタン神社。「かくれキリシタンの聖地」とされ「枯松さん」と呼ばれています。神父は潜伏時代、枯松山にある岩屋に隠れ住み、亡きがらは神社が建つ場所に埋葬されました。神社周辺には、板石を伏せて置くキリシタン墓が残っています。
ほこらの手前には「祈りの岩」と名付けられた大きな岩があります。1641年に禁教令が出されると、キリスト教信者への取り締まりはさらに厳しくなりましたが、潜伏キリシタンたちは信仰を保ち続け、年に1度だけ、復活祭前の「悲しみ節(四句節)」の夜に祈りの岩に密かに集まり、寒さに耐えながら、キリシタン達の祈りの言葉であるオラショを唱え伝承したのでした。
明治に入ってから、信徒たちは神父の墓の上に神社を建立し、信仰の対象として神父に祈りを捧げました。当時のカトリック信徒やその子孫は、表向きは仏教徒や神道として振る舞うことを余儀なくされていたため神社としてカムフラージュしたのです。
2000年以降はサン・ジワンとその信仰を守り続けた祖先たちの霊を慰める「枯松神社祭」が行われ、オラショ奉納などが行われています。
ほこらの手前には「祈りの岩」と名付けられた大きな岩があります。1641年に禁教令が出されると、キリスト教信者への取り締まりはさらに厳しくなりましたが、潜伏キリシタンたちは信仰を保ち続け、年に1度だけ、復活祭前の「悲しみ節(四句節)」の夜に祈りの岩に密かに集まり、寒さに耐えながら、キリシタン達の祈りの言葉であるオラショを唱え伝承したのでした。
明治に入ってから、信徒たちは神父の墓の上に神社を建立し、信仰の対象として神父に祈りを捧げました。当時のカトリック信徒やその子孫は、表向きは仏教徒や神道として振る舞うことを余儀なくされていたため神社としてカムフラージュしたのです。
2000年以降はサン・ジワンとその信仰を守り続けた祖先たちの霊を慰める「枯松神社祭」が行われ、オラショ奉納などが行われています。
住所 | 〒851-2326 長崎県長崎市下黒崎町枯松頭 | |
---|---|---|
電話番号 | 095-829-1193(長崎市文化財課) |
FINISH
Google Mapの読み込みが1日の上限を超えた場合、正しく表示されない場合がございますので、ご了承ください